日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。
野のアザミ
「厳島神社」大鳥居のうち、一本はわが宮崎県産
ここに行ったのは、もう10年近く前だが、この時は全く知らなかった。知っていれば、写真だけでなく手を合わせていたかもしれない。実は、世界遺産「厳島神社」の大鳥居の柱の内、一本は宮崎産というのだ。誰もが知る海の中に立つあの朱塗りの大鳥居だ。鳥居自体は9代目、木造としては国内最大で、国の重要文化財に指定されている。東の柱が宮崎県産、西の柱は香川県産だそうだ。材質は樹齢約900年のクスノキで、主柱の周りは9.9mというから巨木だ。
宮崎県産とはいえ、伐り出されたのは1863年(文久3)。宮崎県ができたのは1873年(明治6)なので、この頃の呼び方では、日向国岡富村産だ。旧・岡富村は、現在の地名では、わが住まいに近い西都市岡富だ。かつて一ツ瀬川左岸丘陵地にあった住吉神社境内の御神木を伐採し、一ツ瀬川に落とし、筏に載せて2ヶ月かけて河口まで運び、日向灘から瀬戸内海経由で1年6ヶ月かけて運んだのだという。東柱になったのは1875年(明治8)なので、その時は宮崎県だ。その頃に生まれていれば、一ツ瀬川を下るクスノキをきっと見に出かけたはずだ。
宮崎県自体は、その後1876年(明治9)に鹿児島県と合併、その後西南戦争(明治10)をへて1883年(明治16)に再び宮崎県となった。
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南北朝時代、日向国で北朝方の拠点となった穆佐城(むかさじょう)
意を決してというほどではないが、穆佐城跡に出かけた。場所は、宮崎市高岡町穆佐小の裏手。いつもすぐそばを通っていたのに、出掛けたことがなかった。「穆佐」の読みは、「むかさ」だ。「大淀川流域地名いわれ事典」によれば、『「むかさ」のムカは「向かいの地」の意で、穆佐の低湿地帯をス(三角州)といい、川向こうからながめてこの地域を「ムコス」と呼んだのが、「ムカサ」になったといわれている。』とある。2002年に国の史跡に指定された中世の山城だ。
南北朝時代の争乱に関わり、戦国時代には伊東氏と島津氏が争奪を繰り返している。建武3年(1339)には、足利尊氏が畠山直顕(ただあき)を日向国に派遣。南朝方との攻防の本拠となったようだ。大規模な曲輪群や掘切、土塁などの保存状態がよく、とても規模が大きい。歴史を振り返ってみると、なるほどとうなづく。「実戦的な城、ここにあり」という感じ。
宮崎市指定天然記念物 島津忠国の誕生杉
イチイガシが林立
シラスの崖
ところで、「宮崎市指定天然記念物 島津忠国の誕生杉」なるものがあった。明治7年に焼失したあと植えられた2代目のスギだが、枝振りもなかなか良かった。その他、イチイガシも。またシラスの崖も見ることができた。約3万年前に、姶良カルデラが超巨大噴火を起こした時の入戸火砕流の堆積物だ。自然の営みは、人知を超える。
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比木神社、奥深し(宮崎県木城町)
新しくなった天井画
この写真は2020年のもの(今年のはしっかり丸かった)
Good timing とは、このことだったのだろうか。もう一ヶ月以上前のこと。『木城町を知ろう!』という企画で、最後に訪ねたのは宮崎県木城町にある比木神社。参加者20人。ちょうど地区の人たちの手で「茅の輪」が出来上がったばかりだった。「茅の輪くぐり」とは、正月から半年間の厄を祓い、残り半年の無病息災を祈願する行事だ。別名「夏越大祓」。地区の方達に促され、「茅の輪くぐり」トップバッターに。茅の輪をくぐって、左に回って右に曲がってまた左。くぐり抜けて一礼。そこで声をかけていただいたのは、地区の方達と一緒だった宮司さん。みんなが「茅の輪くぐり」を終えた後、新しくなった天井画の説明をしてくれるという。ということで拝殿へ。そこで見上げれば、色とりどりの天井画。以前のものが古くなったので、絵が大好きな人たちに天井画を描いてもらおうという大プロジェクトを立ち上げたのだという。その結果、全国から寄せられた絵は合計300枚。見ていて飽きることはない。いつでも自由に見学できるそうだ。中には西都市の画家・弥勒祐徳さんの絵もある。拝殿と本殿をつなぐ渡り殿の天井に描かれた龍の絵も見事だ。ただし、こちらは古くからの絵。
福智王のお墓と説明板
その後、鳥居横のクスの大木を背景にみんなで記念撮影。普段ならそこで神社にお別れするのだが、宮司さんが「福智王の墓を案内します」という。比木神社には、主祭神の大己貴神などの他、百済から逃れてきた福智王も合祀されている。しかし、その墓があるなどとは、思いもよらなかった。大不覚だ。歩いて2、3分。すぐそばだった。そこには大きな五輪の塔があった。比木神社、なかなか奥が深い。
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頼朝の位牌・・・?
頼朝の位牌と言われる
頼朝の墓と言われる五輪塔
千手観音
毘沙門天像
不動明王像
「海潮音」と刻まれた掲額
頼朝の墓と言われる五輪塔
千手観音
毘沙門天像
不動明王像
「海潮音」と刻まれた掲額
写真データを見ると2004年8月とあるから、以前拝観したのはもう20年近く前だ。1年に一度のご開帳。それも夕方から3時間ほど。なので、なかなか・・・。
宮崎市佐土原町西上那珂にある「平等寺観音堂」だ。不思議なところだ。頼朝の位牌があるのだ。高さが1m30cmほどもある。説明してくれた地元の方は、全国に3カ所しかないとも言っていたが・・・。表面は人が触り続けたためか木肌が見えるばかりで、何と書いてあったか全く分からない。境内西角にある小さな丘は経塚と呼ばれ、頼朝の墓だという五輪塔もある。ただ、空輪・風輪は欠けている。そして、年に一度のご開帳となるのが千手観音だ。金ピカである。その両脇を毘沙門天像と不動明王像が固めている。千手観音の手前上には、「海潮音」と刻まれた大きな掲額が掛けられている。海潮音とは、仏・ 菩薩の広大な慈悲の音声があまねく聞こえることを波の音にたとえたことばのようだ。
平等寺は、中世の時代日向国を治めた伊東氏の祈願寺であり、かつては10数町(10数ha)もの広さがあったという。創建は1191年だ。佐土原は、西都市都於郡(とのこおり)と共に伊東一族の中心の一つであった。その伊東氏を遡れば、頼朝に重用された工藤祐経に行き着く。そういうことを思えば、頼朝の位牌やお墓などがあることも少しは合点がゆく。しかし、丸に二引紋が読み解けない。
平等寺は廃仏毀釈で廃寺となり、今は観音堂だけしか残っていないが、かつては韓国の蔚山(うるさん)から伝わった梵鐘があり、村民の雨乞い、疫病払いの鐘として信仰の中心になっていたと言われる。しかし、廃仏毀釈の頃不明となり、後に古物商を通じて大阪の正祐寺の手にわたり国宝になっている。そのままであれば良かったのだが、戦災にあい、焼けて3分の1ほどになったようだ。しかし今、正祐寺には写真などから復元された修復鐘と元の破損鐘が並んで展示されているそうだ。高さ116・7cm、口径68・2cm、重さ213kgとある。渡来鐘の中でも傑作の一つとされる名鐘、一度里帰り出来ないものか・・・。
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佐土原を懐かしがった14代沈壽官
勝手口を上がった横にある本棚の前を通り過ぎる時、文庫本『故郷忘じがたく候』が目に入った。慶長の役で薩摩軍によって拉致され、苗代川(現・東市来町美山)の地に生き続けた人たちの痛哭の短編だ。作家は司馬遼太郎、主人公は先代(第14代)の沈壽官だ。
もう10数年前、その当人に会ったことがある。工芸家仲間などと沈壽官窯に出かけた時、受付で「佐土原からです」と言うと、当人につないでくれた。アポなしである。奥の方から作務衣姿の大きな体が現れた。仕事中だったのかもしれない。だが「佐土原」という言葉が懐かしそうで、終始笑顔で感慨深げだった。
実は、江戸期の佐土原(現・西佐土原)には、苗代川の陶工から技術を習う「苗代川焼物稽古所」なるものが開設されていた。苗代川に伝わる「古記留渡海以来の件」=寛保2年(1742)によれば、「万水、仙徳事、高岡へ壷商売に差し越し候ところ、佐土原焼き物細工仰せ付けられ、八月、林正訓願いによって差し越しつかまつり、賃米、米一斗宛て分二百文宛て下され候事、翌年亥正月朴清念へ仰せ付けられ、賃米弍朱宛て分弍百文下され候事、往来の人馬下され候事。」とある。
というようなことがあり、14代沈壽官は、自ら佐土原に足を運ばれたこともあったようだ。そのため、佐土原と聞いて、懐かしく思われたに違いなかった。
白地に金色など豪華な紋様が施された薩摩焼は、とても苦手でずっと敬遠していたが、沈壽官窯収蔵庫を見た時、薩摩焼に対する見方は一変した。そこには初代からの作品がずらりとあった。特に魅了されたのは、白地の大きな縦長の壷。温かみのある白で、それまで想像していたものと全く違っていた。他にも、沈壽官を名乗った歴代の作品はそれぞれ見応えがあり、歴代それぞれの作品に込めた思いや技術には唸るばかりだった。14代沈壽官は、2019年に亡くなられたのでもう会うことはできないが、沈壽官窯に行くことがあれば、収蔵庫は必見だ。14代沈壽官の作品にも出会えるはずだ。
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佐土原にもいた勤皇の志士・池上隼之助
宮崎市佐土原町上田島は、かつて佐土原藩の城下町だった所だ。かつては、源頼朝に地頭に任命された工藤祐経の一族が伊東氏として治め、戦国末期から江戸期には島津氏が治めている。なので、今は寂れた町になっているが、かつては大いに賑わい、人物もたくさん出た町だ。なので、物語だけは掃いて捨てるほどある。その中から興味深い人物をひとり・・・。
同時代に生きていたら、この人をどう見ていたのだろうか? 羨望、あるいはバカタレ・・・?。あの薩摩藩士同士が壮絶な斬り合いとなった寺田屋事件の時、渦中にいた一人だ。名は池上隼之助という。
文久2年(1862)、薩摩藩主・島津久光は公武合体の実現をはかるべく、武装兵1000名を連れて上洛することにしていた。朝廷から勅諚を得て、武力を背景に幕政転換をはかる考えだったのだ。上洛との報は、各地の勤皇派を刺激し、公武合体では生ぬるいとして、倒幕軍に転換させようと続々と京都へ集まった。そして4月23日、薩摩藩士22名を中心とする43名が伏見の船宿・寺田屋に集結し、所司代襲撃という行動を起こそうとしていた。その中に、佐土原藩からも富田三蔵と池上隼之助が参加していた。
だが、計画はすでに漏れていて、久光は意志にさしさわるとして、配下の9名を説得に向かわせた。しかし、話がつかず、最後はすざまじい斬り合いとなり、鎮撫側で1名、志士側で6名が死亡、その他多数の重軽傷者を出した。2階にいた三蔵と隼之助は、決死の覚悟だったが、最後は説得に応じたため薩摩屋敷へと連行された。その後、薩摩藩士は帰藩謹慎処分、他藩の志士は久留米藩や土佐藩に引き渡されたが、引き取り手のない者は、薩摩藩引き取りとなった。しかし、これは暗に道中の切り捨ての意味。細島への舟道中、惨殺され、海中へと投げ捨てられている。
だが、世の流れは転がるように早かった。久光の思いを乗り越え、倒幕へと傾き、三蔵と隼之助は許され佐土原藩に帰され幽閉された。この時期でも、佐土原藩は保守派が多かったようだが、主君・忠寛は先見の明があったのか、のちに三蔵を諸藩との交流周旋役に任命している。一方、隼之助は、薩英戦争の時、御旗奉行兼御納戸で随行したが、病気がちとなり、元治元年(1864)36歳の若さで亡くなっている。
どういう夢を見ていたのか気になりながら、隼之助の墓を訪ねたことがある。佐土原中学校裏の天昌寺跡には、よく知られる島津家久・豊久親子の墓がある。隼之助の墓は、途中、それに向かう側とは違う、反対側にある。天昌寺跡のお墓は、ほとんど竹林の中に埋もれている。なので、仮払い機と焼酎を持って出掛けた。仮払い機で進んだ先にあったのは、切妻屋根の形をした池上家の墓だった。もう、十数年前のことだ。
(写真は佐土原町史より)
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沖田畷古戦場跡(おきたなわてこせんじょうあと)
龍造寺隆信供養塔
「沖田畷」とは、何と読むのだろうと思ったのは随分昔のこと。機会があれば訪ねてみたいと思っていた。なぜかと言えば、有馬晴信の援軍として島津家久が参戦していたからだ。家久は、かつて宮崎市にある佐土原城の城主だった。その死は謎めく。天下統一を目指す秀吉軍との戦いの最末期、突然病気で死ぬ。秀吉軍に毒をもられたとか、あるいは身内の島津軍からだとか・・・。その後城主になったのは息子・豊久だ。豊久は、伯父義弘を薩摩に帰さんとして関ヶ原の戦いで討ち死にする。その家久・豊久親子の墓は、佐土原城近くの寺跡の一角にある。私の住まいからは車で10分足らずだ。
家久が城主になる前、日向の国(現宮崎県)は伊東氏がおさめていたが、島津氏との戦いで破れ、豊後(現大分県)の大友宗麟を頼った。その後、島津氏は、1578年(天正6)大友氏と宮崎県中部の高城川の戦い(耳川の戦い)で大友氏を撃破し、九州を制覇するような勢いを持つ。そのような勢いの島津軍の中にあって、主要な役割を果たした一人が家久だ。
島津の戦法に「釣り野伏せ」というよく知られたものがあるが、その戦法にも長けていたようだ。軍を3つに分け、2隊は前もって左右に伏させておき、1軍をおとりとして敵軍と対峙させ、負けに見せかけて後退し、機を見て伏せていた2隊が挟み撃ちするという戦法だ。そのようなこともあり、家久に関心を持っていた。肖像画は、私の知る範囲では無い。
ところで、「沖田畷」とはどういうところだったのか。畷の意味は、田んぼの中の道、あぜ道だのようだ。観光ガイドでは次のように紹介してある。「当時、島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、眉山と森岳城(現・島原城)との間にある道も幅が狭く、沖田畷とはその湿地帯を縦貫する畷であり、交通の要衝でした。」このような場所が合戦場として選ばれたのだ。攻める龍造寺軍約6万人に対し、守る有馬・島津連合軍は約1万。圧倒的兵力の不利を前に、畷に誘い込み龍造寺軍を壊滅させようと策したのは、はたして家久だった。(注:各兵力諸説有り)。
そのようなことを頭に入れて、古戦場跡に行ってみた。行ってみればそこは、周りに田んぼなど全くなかった。国道251号線に面した貨物自動車会社の一角なのだ。国道には歩道脇に「沖田畷古戦場跡」という縦看板があったが、車からは電柱に邪魔され、注意していなければ見落としてしまいそうだった。車を止めさせて頂き、ブロック塀にそって史跡へ。そこには合戦場跡の説明板と龍造寺隆信を供養する石塔が木々に囲まれ静かに立っていた。しばし、沖田畷を想像してみた。当時は胸までつかる程の泥田で、その真ん中にはたった一本の道。多くの武士が泥田の中に命を落としていったのだろうか・・・。その後合掌し、史跡を後にした。畷を思わせる風景に出会えぬままの、あっけない古戦場跡訪問だった。
帰宅後、龍造寺隆信のことを調べてみたら、お墓は佐賀市の高伝寺にあるという。「ええッ、高伝寺!」。随分と昔のことだが、ここには何回も行ったことがあった。沖田畷は想像していた風景とは全く違ったが、なんとも不思議な巡り合わせを与えてくれた。行ってみて始まる「汲めど尽きない歴史物語」となった。それにしても、何とも相変わらず世界各地で争いごとが絶えないことか・・・・。
佐土原天昌寺跡の家久の墓(左端)・豊久の墓(左から2番目)
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田原坂
右上が雲をたなびかせている雲仙普賢岳
田原坂西南戦争資料館に出かけた。以前にも一度訪れたことがある。少しおどろおどろしい陰湿さが頭の片隅に残っていた。九州自動車道で近くを通るたびに寄ってみたい思いはあったが、頭の片隅の陰湿さが足を遠のかせていた。しかし、近くに行く機会があったので、意を決して寄ってみた。
資料館の周りは、田原坂公園として整備され資料館もきれいで見やすくなっていた。駐車場も広く、大型観光バスもやってきていた。資料館に入る前、すぐ脇にある展望デッキから正面の景観を臨んだ。意外にも、政府軍が陣や砲台を構えた正面の丘の向こうに雲仙普賢岳が顔をみせていた。正面の丘の手前の低地には田んぼの向こうに鹿児島本線が走り、左手に見える山の斜面が緩やかで景観はとても雄大で美しくあった。
それだけであればいいのだが、ここは西南戦争最大の激戦地だったところだ。資料館に入り、展示物やスクリーンに映し出される戦いの場面は、やはりどこかおどろおどろしかった。
元々の田原坂は、熊本城をつくった加藤清正が戦略上北の守りとして作った要衝のようだ。坂道は周囲より低く、両側から狙撃しやすいようにつくられ、その上、先が見通せないように曲がりくねっていた。そこに薩摩軍が陣を敷き、突破しようとする政府軍と死闘をくり返したのだ。官軍を迎えうつには絶好の場所だったのだろう。しかし、この戦いに破れた後は、大津や御船などでの激突を経て、薩摩軍は人吉、宮崎、高鍋、延岡へと転戦、西郷隆盛らは日向長井から可愛岳を突破した後、九州山地を経て故郷鹿児島の城山で散った。
田原坂を訪れ、西南戦争のことを少し読み直してみたが、西郷隆盛という人物がどうもよく分からない。なぜ装備も前近代的で軍艦も無く、軍資金の乏しいまま参戦したのか、負け戦が確実になった時に講和は考えなかったのか、そしてなにより、戦いで被害を被る市井の人々のことはどう思っていたのか・・・・。
宮崎県は当時は鹿児島県に組み入れられ、西南戦争末期には戦場となり、軍資金不足から作られた「西郷札」などで大変な被害を被ったのだが・・・・。
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文禄・慶長の役「島津義弘陣跡」
3月23日玄海原発3号機の再起動の日、ゲート前集会に出かけた。宮崎からは高速を利用してもかなり時間がかかる。玄海原発と宮崎市中心部までの距離は約230km。福島第一原発と東京の距離にほぼ等しい。福島事故で環境に放出された放射能の約8割は太平洋側に流れた。残りの約2割が陸上だ。日本が偏西風地帯にあるためだ。福島事故では東京方面へも放射能が流れた。ある核科学者は、都内で放射能を測定し「濃密な汚染」と表現していた。玄海原発で重大事故が起これば、地元佐賀県や隣接の長崎・福岡県だけでなく九州全域、あるいは西日本全域が、深刻な事態になることは想像に難くない。新規制基準に「適合」したからといって、事故が起きない保証はどこにもない。
というようなわけで出かけたのだが、その帰途、文禄・慶長の役時の「島津義弘陣跡」に立ち寄った。島津義弘の甥・島津豊久は、わが地にある佐土原城のかつての若き城主であり、共に朝鮮へ渡海しているからだ。そのため、一度は訪ねておきたかった場所だ。場所は韓国などからの観光客でにぎわう波戸岬の近く。国民宿舎近くの駐車場に車を止め、少し散策。周辺は陣跡がたくさんあり、案内板には日本語だけでなくハングルも。幾つかの陣跡を訪ね、いよいよ義弘陣跡へ。ここにも結構な駐車場があり、タイルの案内板に陣跡を示す絵があり分かりやすかった。駐車場の正面に入江。ここから船を出したのだろうかと想像。正面に馬渡島(まだらしま)が見えるところだ。佐賀県では最も大きい島だ。名護屋城の天守台跡に立てば、壱岐や遠く対馬もかすんで見えたが、こちらは両方とも長崎県だ。
しばし想いをめぐらし、入江側に降りてみた。半島の入江は千艘隠しとも呼ばれ、この入江もそのひとつなのだろう。秀吉の命とはいえ、朝鮮半島を目指した武士たちの気持ちはどうだったのだろうか。それぞれ家族があり、相手もまた家族があったはずだ。折しも朝鮮半島では、北朝鮮の核開発やミサイルをめぐり緊張が高まっていた時期だったが、武力使用は核戦争にも発展しかねい。頭を冷やし、平和への努力こそ必要だ。帰りの途中からは、再起動したばかりの玄海原発3号機が見え隠れしていた。
この日、再起動したばかりの玄海原発3号機
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家老屋敷跡から出土した佐土原人形
9月30日、「佐土原城が語る歴史とこれから」の記念講演に出かけた。佐土原城発掘調査報告に合わせた講演だ。主講演に先立ち、過去の城域での調査と家老屋敷跡の発掘調査の成果が報告された。次の日は佐土原城跡発掘調査現地説明会だった。主講演と現地説明会のことは後日書いてみたい。
この講演会の関連資料として、家老屋敷跡から出土した一部がロビーに展示してあった。その中には佐土原人形も、顔(首)のみだったが展示されていた。端正な顔立ちの人形だったが、私の関心を引いたのは、展示コーナーを示すパネルに写っていた2体の佐土原人形だった。出土した人形片を丹念につなぎ合わせて復元したものだ。写真の人形は、柔らかな流れを持つフォルム、「挿し手・挿し首」、底のないことなどからまぎれもなく佐土原人形である。江戸期末期のものと考えられるが、写真右側の人形は、担当者の説明では高さ約50cmほどの人形という。ただ正確ではない。歌舞伎人形のようだが、独特な髷のスタイルから類推すれば、仁木弾正( にっきだんじょう)人形とも考えられる。仁木弾正人形とすれば、歌舞伎事典によれば、「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」に登場する敵役で、妖術を使いお家乗っ取りを企む大悪人で、実悪の代表例のようだ。顔を白く塗り、燕手(えんで)と呼ばれる鬘をつけるのが特徴とある。相手役人形もあったはずだが、これは出土しなかったのだろう。
それにしても、想像力を刺激する新たな人形に出会い、佐土原人形への関心がさらに増してきた。人形名やつくられた年代が特定できるなら、創成期の佐土原人形のことが少し分かってくるかもしれない。
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