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によっきりスッポンタケ

立ち上がる姿は男どものイチモツ!?


いつも年末が近づくとコナラを1、2本切り倒すことにしている。シイタケの原木にするためだ。もう植えてから10数年経っているため、根元付近はとても大きくなりチェンソーなしでは倒せなくなった。今までもチェンソーを使ってはいたが、調子が悪くエンジンをかけるのに一苦労していた。そのため、少し大きめの充電式チェンソーを新たに買い求め、試運転も兼ねて先日コナラ林へ。例年より1か月ほど前倒ししての伐採だ。1本の木から長さ1mほどの原木6本をとったが、根元の方は直径20cm以上にもなり運び出すのに汗だく。
どうにか運び出し終わって、チェンソーを取りに戻った時のことだ。足もとに初めて目にするキノコを見つけた。にょっきり白い柄を草の間から顔を出した姿は、男どものイチモツにも見える。傘は暗い緑色。ただ、若いキノコではなくちょっとしおれ気味。その日は気になりながらもそのままだった。2、3日して、やっぱり気になるので再度その場所に行ってみた。すると、しおれ気味だったキノコはもうぐったりと地面に倒れて這いつくばった状態。これでは絵にもならないと思い、近くを探してみた。すると白い卵状のものが草の中に・・・。「ああ、これだ!」と思った。
そう思ったのは、過去にイカタケを見つけたことがあったからである。イカタケの時は、ウズラの卵ほどの白い塊が幾つもあり、長靴の底で触るとツルリと皮が剥け、その後イカの足の様なのがぐにょぐにょ出てきて、ちょっとした発見であった。
というようなことで、数日待って見ることにした。その間、いろいろ調べても見た。名前はどうもスッポンタケで間違いなさそうだ。竹がある付近に出てくるようで、食することもできそうだ。しかし、食べる気にはならない。傘の下からレース状のものが現れれば凄いが、それは現れないようだ。
3日経った朝だったか、行ってみると「おお、にょっきり!」。写真を撮るため近づくと、何やらヘビの頭にも見えたが、ぐっと我慢して接写した。
このスッポンタケ、先端部に粘着質の胞子つくり、臭いに誘われたハエを媒介にして子孫を増やしていくそうだ。悪臭の報告が多いが、まだ若かったせいか強烈な臭いはしなかった。植物の生存戦略、様々だ。
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壱岐・対馬行/その7(壱岐・月読神社)

厳原港近くにあった消防団倉庫の壁画


フェリーターミナル前のハングル看板


朝鮮通信使絵巻部分(フェリーターミナル)


月讀神社の石段


3日目の朝を迎えた。対馬から再び壱岐だ。朝、お宿から厳原港へ向うと川の中に小魚が見える。すぐ港の近くなので多分海の魚だ。港近くの消防団倉庫の壁に壁画があった。その近くに気になっていた大きな岩肌が見えた。立亀岩(立神岩)だという。島人はこの岩を見て対馬を旅立ち、里帰りの時はこの岩を見てふる里に帰ってきたと安堵するのだそうだ。
さて、厳原港からは、ジェットフォイルではなく、普通のフェリー。時間はかかってもこちらの方がゆったり気分だ。対馬にさよならして海をわたること約2時間15分、壱岐の芦辺港に着いた。
そこから向ったのは、行ってみたかった月讀神社。今は全国各地に月読神社があるが、ここが元宮だそうだ。祭られているのは、月読命、月夜見命、月弓命である。あと先になるが、頂いた由緒の月読命の項には次のようにある。「読むというのは月齢を数えることであり、日を数えるのは暦(太陰暦)である。したがって月読と稲作、潮の満ち干とは大変係がある。」と。そして御神徳のところには、生命の誕生と共に農業の繁栄(自然界では、旧暦の暦と共にある)もあった。最近は全く太陽暦一辺倒だが、太陰暦の大切さを知ったのはつい最近のことだ。ある時竹を数本切ったが、どの竹も水分たっぷりで、置いておいたらみなカビてしまった。竹の伐採は水揚げが止まる秋口から冬までの期間で、それも新月の時が最適なのだそうだ。種を蒔くにしても、苗を移植するにしても、月が関係しているようだ。太陽暦オンリーでなく、太陰暦も見直してみる必要がありそうだ。
というようなことで、大変関心を持っていた。元宮であり、「日本神道発祥の地」とも言われている。バスは石段の下の鳥居の前で停まった。添乗員が石段をしきりに気にしていたが、少し急なだけで何のことはなかった。登ってお参りした後、ここで思わぬ出会いがあった。記念にお札を求めようとした時だ。中に座っていた若い神官が「どちらからですか?」と声をかけた。「宮崎です」と応えると、「私も宮崎生まれです」と言う。私たちの言葉が気になっていたのだ。宮崎はどこですか?と問うと、佐土原ですと言う。えっ!、私も佐土原だけど・・・。佐土原のどこかと問えば、どこそこのどこそこ・・・と応える。何と奇遇なことか、同郷の方であった。聞けば、奥さんになる人と都会で知り合い、奥さんの所に婿入りしたのだという。私の住む宮崎市佐土原町には、今から約200年ほど前の江戸時代、全国の諸山を巡る修行に出た野田泉光院という人がいた。修験者で当時のトップクラスの知識人だったという。全国を托鉢して歩き、『日本九峰修業日記』という旅日記を残した。そこには当時の庶民の姿がありありと書かれていたため民俗学上貴重な史料とされている。そのなかには、各地で旅をしている同郷人と会ったことも書かれている。今に劣らず、江戸時代の庶民も旅が好きだったようだ。尚、野田泉光院の家系からは、6代後に現代美術の父とも言われた瑛九(えいきゅう)が出ている。「佐土原」捨てたものではない。
月讀神社にさよならした後、海の見えるお食事処で昼食。屋外からは遠くに平戸島など見えた。これでツアーでめぐる観光は終わった。後は、最初に着いた印通寺港から唐津港へ最後の船旅だ。普通のフェリーなので気持ちもゆったりだ。九州が近くなって来ると、左手には糸島半島、右手には神集島などを眺めることができ、予定通り唐津港に着いた。あとは唐津市東部にあるおさかな村でお土産を調達して一路宮崎へ。途中、久留米を過ぎた辺りから西の空に夕陽が美しく、何枚か写真を撮った。


壱岐・対馬にさよなら


金銅製亀形飾金具(一支国博物館パンフより)


旅の終わりの夕陽(車窓より)


初めて訪ねた壱岐・対馬だった。ほとんど行程にそって書いたが書き残したことも多い。また、集団でのツアーでは仕方ないかもしれないが心残りも多い。一支国博物館では余りに時間が短かかった。ここでは金銅製の金銅製亀形飾金具や金銅製単鳳環頭大刀柄頭やト骨あるいは人面石などゆっくり見たかった。
現在、世界中コロナで大変だが、旅行業や宿泊業などの大変さも痛感した。特に対馬は、韓国からの旅行客が年間40万人にも達していたという。しかし今は、日韓関係の悪化と新型コロナのせいで全くのゼロ。大きな痛手を被っている。朝鮮半島との関係修復とコロナの終息を願うばかりだ。今回、元寇のことや朝鮮出兵のことを除き、白村江、防人、あるいは倭冦のことなどには全く触れなかったが、今回の旅行で朝鮮半島との歴史も少しばかり頭に入れることができた。有意義な旅だったということで、旅行記を終えたい。
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壱岐・対馬行/その6(和多都美神社・烏帽子岳展望台)

海に立つ鳥居と陸に立つ鳥居


珍しい3本柱の鳥居


外削ぎの男千木(右)と内削ぎの女千木(左)

万関橋の次に目指すのは、和多都美神社だ。382号線の両側は照葉樹の森が続き、まもなく豊玉町に入った。対馬のちょうど真ん中に位置する町だ。「豊玉」で思い浮かぶのは、豊玉姫だが、この地に来てびっくり。「海幸山幸」の伝承地なのだ。宮崎の青島神社も「海幸山幸」の伝承地だ。日向神話に出て来るから宮崎の専売特許と思っていた。宮崎駅から南郷駅間には、JRが特急「海幸山幸」を走らせてもいる。青島神社は、彦火火出見命(山幸)が豊玉姫命とともに海積宮(わだつみのみや)から帰ってきたあとの宮居跡とされている。尚、「海幸山幸」は、隼人族の一部が大和朝廷に服従したことを意味する神話との説や、黒潮系の南方族との交流を意味する神話であるとする説もあるようだ。奥は深い。また、日南市には全国でも唯一の火闌降命(海幸彦)を主祭神とする潮嶽神社がある。

対馬の和多都美神社は古くは「渡海宮(わたつみのみや)」と呼ばれたようだ。祭神は、豊玉彦尊の娘・豊玉姫命と彦火火出見尊だ。神社に着くとすぐに鳥居が目に入った。海に2つ、陸側に3つ、まっすぐに神社本殿に向って立っている。が、海の中の1本は倒れていた。聞けば、先の台風で倒れたのだという。早いうちに建て直しになりそうだが、元号も改まったので、さらに1本建て増そうとの案もあるそうだ。
私の目を引いたのは、これらの鳥居ではなく、参道脇の池のような所に立っていた小さな鳥居。そこには潮が引き込まれるようになっていて、潮が満ちてくれば、そこも海中の鳥居になるのだ。見慣れている2本柱の鳥居でなく、3本柱の鳥居だ。よく見ると、鳥居の真ん中には「磯良恵比須」という鱗状の岩が祀られていた。阿曇磯良(海神)のご神体という。
本殿にお参り後、脇に立つ松に注目。見る角度によって龍に見えるのだというので、本殿横に行くと確かにそのように見えた。龍の頭部と胴は松の幹で、尾の方は本殿にそって長く伸びる根だった。そして珍しかったのは本殿の千木。削ぎ方が違うのだ。右側が「外削ぎ」で男千木、左側が「内削ぎ」で女千木という。初めてみる削ぎ方だった。そこから少し森の中を歩くと大木と大岩の前に豊玉姫の墓が祀られていた。ここで印象に残ったのは、墓の後ろの大岩。まるで太刀でまっぷたつに切られてたようになっていた。


烏帽子岳展望台からの浅茅湾の眺め


さて、次の目的地は烏帽子岳展望台だ。同じ豊玉町内にある。バスは曲がりくねった狭い道をぐんぐん登っていく。眼下に浅茅湾が見え始め、入り組む湾には大小の島が浮かんでいる。やがて頂上近くの駐車場へ行き着いたが、既に大型バスが2台駐車していてどうなるかと心配したが、そこは地元の運転手、先に停まっていた大型バスの前に何なく止めた。そこから展望台までは急な階段を歩いて登らなければならない。添乗員が大変そうに言ったが、万松院でのこともあるため、ここはどうあろうと登ることにした。だが何のことはない、展望台はすぐだった。眼下には浅茅湾や大小の起伏で連なる照葉樹の森が美しかった。西北の一角には連なる森の向こうにうす〜く横に広がる白い海が見えた。晴れてはいたが、もやがかかっているのだ。地平線も定かでなかったが、ずっと見ていると海と空の境が分かり始めた。近くにいたガイドは、天気に恵まれれば朝鮮半島が見えると言う。その言葉を聞きながらさらに見つめていると、海の上に小さな白いものが見え始めた。動いていたから船だ。多分、大きな貨物船だったのだろう。さらに目が慣れてくると地平線の上に何やら小さな白いものが確認できた。こちらは動いていない。朝鮮半島の南に浮かぶ島だ。方角からすると釜山南西部の巨済島だったのか、あるいはそれより南の小さな小島だったのか定かではないが、確かに韓国側の島であった。
今回の対馬はここまでだったが、最北端の鰐浦や佐須奈まで行くともっとはっきり見えるのかもしれない。鰐浦や佐須奈は、朝鮮通信使が最初に着いた港だ。その北端の人たちにとっては、かつては厳原に行くには1泊を必要としたが、釜山には日帰りだったという。釜山で映画を見て日帰りで帰るということがあったそうだ。
烏帽子岳展望台からの階段を足早に降りると、登らなかった何人かが逆光に輝く浅茅湾を見ながら談笑していた。その後バスは一路厳原へ。厳原に着く頃は、もう日暮れがせまっていたため、予定に入っていた武家屋敷通りの散策は説明だけでお宿へ。ここでは食事が出ないことになっていたので、しばし休憩の後、近くの食事処へ。ご飯と一緒に野菜サラダを注文した。出てきたサラダをみてびっくり。直径30cmほどもある大皿にレタスなど健康野菜が山盛り。黙々と全ておいしくいただいたが、この大盛りサラダのおかげで、ご飯がどういうものだったか全く思い出さない。

(注)青島神社の彦火火出見命/海積宮と、和多都美神社の彦火火出見尊/渡海宮はそれぞれで使われている漢字を使用しました。
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壱岐・対馬行/その5(万松院・万関橋)

ツシマヤマネコ(観光パンフより)


宗家累代の菩提寺万松院山門


万松院の三具足


登り損ねた墓群への石段


建設中の博物館(手前右)と山上の清水山城


博多からの客が降りた後ジェットフォイルに乗り込んだ。飛行機のように座席指定だ。私の席は左舷の一番うしろ。しかし、これが悪かった。何しろジェットエンジンのすぐ近くで、うるさいのだ。壱岐から対馬までシートベルトをしたままの昼食となった。配られた弁当は、バスの中で何度も予告された壱岐名物のウニご飯。といってもご飯の上にウニがのせてあるのではなく、混ぜ込んであるという弁当だ。お腹も空いていたのですぐに食べ終わった。ごちそうさま。
この日も天気抜群!そして海はべた凪。ジェットフォイルは海の上を浮上して走る。ガスタービンエンジン駆動のウォータージェット推進機で1分間におよそ180トンもの海水を吸い込み、強力なウォータージェットとして船尾ノズルから後に向けて噴射するのだという。180トンの水とは25mプールの半分ほどの量だそうだ。だから速い。壱岐芦辺港から対馬厳原港までは約1時間強だった。
港に着くとすぐに、待っていたバスで市役所近くのふれあい処へ。対馬の観光案内とお土産施設だ。いきなりのお土産施設にはまいったが、観光コーナーにはツシマヤマネコの動画があった。実物に会ってみたいが、今回は予定なし。残念。ツシマヤマネコは、国の天然記念物に指定されていて、環境省のレッドリストでは絶滅危惧ⅠA類に分類される絶滅の危険性が高い種だ。動画のヤマネコは2匹で、田んぼのあぜ道で戯れていた。世界中どこでもだが、この数十年の間に多くの種が滅んだり絶滅の危機に瀕している。危機におとしめているのは人間の活動だ。地球上で最も悪い種は、ヒトということか。複数のわが師は、宗教家ではないが「小欲知足」を説く。
ふれあい処のすぐ側では新しい博物館が建設中で、ドドドッと工事音を響かせていた。ひと時、時間が過ぎた後、次に向った所は万松院。歩いて5、6分ほどだったか。1615年(元和1)創建の対馬藩主宗家累代の菩提寺だ。数度の火災で本堂は明治に立て替えられたようだが、山門と仁王像はそのままで、安土桃山様式とか。本堂でお参り後、目に留まったのは朝鮮国王から贈られたという大きな置物。そう、ここ対馬は朝鮮通信使ゆかりの地だ。対馬市指定文化財になっている「万松院の三具足」だ。左から大きな花立て、獅子が香煙を出す香炉、亀の上に凛として立つ鶴の燭台だ。しばし観覧、立派だ。
対馬でのガイドは地元男性で、説明は懇切丁寧だった。しかし、懇切丁寧は時にアダになる。山門の右手には高い石段があるのだが、ここに登り損ねた。山門や本堂に時間を取られ過ぎたのだ。階段を上れば巨大な墓群と樹齢1200年という大杉3本に相見えたのだ。階段の途中に大杉があるのはあとで気付いたが何とも心残りだった。それにしても、万松院背後の照葉樹林は見ていて飽きることはなかった。対馬は平地は少なく山また山だ。背後に広がる山々は、急角度で天に昇るほどに広がり、緑々しているのだ。その一角に白い石垣が2カ所見えた。秀吉の朝鮮出兵の時に築かれた清水山城だ。時間があれば登ってみたいところだったが、これも残念。尚、秀吉の朝鮮出兵で対馬にとって命綱であった朝鮮との交易は断絶、家康の登場を待たねばならなかった。学校では教えてくれなかったが、江戸期鎖国政策の中でもわずかだが対馬は朝鮮との交易を続けていた。但し、朝鮮も鎖国政策をとっていたため長崎出島ほどではない。


当時のままの対馬藩お船江跡


浅茅湾と日本海をつなぐ水路(万関橋から)


板状の岩で葺かれた休憩所

万松院のあとは、近くの対馬藩お船江跡に。藩の御用船を係留した船だまりだ。江戸期の遺構が原型そのままのため、当時を知るにはとても貴重なところだ。当時の船が復元されていればなお良かったがそれは無し。写真左の係留船は、当時のものではなく、現在の船。残念。
さて、そこからバスは厳原市街を抜けて国道382号線を北上し、下島から上島方面へ。対馬は南北の細長い島でやや東に傾いている。その中央部よりやや下の所で、西の東シナ海からリアス式の湾が大きく入り込んでいる。浅茅湾だ。しかし、湾は日本海側には抜けていなくて、細い陸地でつながっていたのだ。そのため、湾に入ってきた船は、細い陸地部分で船を陸に引上げ日本海に抜けていたのだ。そこには小船越、大船越の名が残っているが、大船越には1671年(寛文12)に運河が造られ自由に行き来できるようになった。バスはその橋の上を通り、明治期に新たにつくられた大きな水道へ。人工の瀬戸だ。1900年(明治33)、軍事上の理由で当時の帝国海軍が艦船が通行できるように大掘削したのだ。その上にかかる万関橋は1996年(平成8)に完成、現在海上陸上の交通の要所となっている。橋の上から眺めると、直線的に切られた両岸と眼下の青い流れがとても印象的だった。橋のたもとには、対馬ならどこでもあるという板状の岩で葺かれた休憩所があった。これは観光のためのもので、石葺屋根の建物は台風や季節風、あるいは火災から食料などを守るための倉庫としてつくられたそうだ。
しばしそこで過ごした後、バスは万関橋を渡り上島へと進んだ。
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壱岐・対馬行/その4(黒崎砲台跡・猿岩)

黒崎砲台跡の巨大な穴


猿の横顔に見える猿岩


要塞残土でできた小高い山

2日目に入ると、バスには地元ガイドが付いた。元気はつらつの中年女性だ。最初の目的地は、黒崎砲台跡と猿岩。曲がりくねった狭い道をバスは行く。両側に草木が茂った狭い道にさしかかると、「市長であったら・・・」などと述べる。島の人口は約2万6千、予算は厳しく、当分道路拡張はなさそうだ。「壱岐は南北17km、東西15km。それより走れば海にドボン」が口癖であった。島の歴史=元寇で攻められ無人になったことなど話されるうち、黒崎砲台跡に。猿岩が眼前の駐車場から少し登ると巨大な穴が現れた。建設中だった戦艦「土佐」の主砲が据えられていた跡だ。戦艦は第一次世界大戦後の軍縮会議で廃棄することになったが、主砲だけは残したいと軍部が秘密裏に保管し、設置したようだ。昭和8年完成。対馬海峡を通過する艦船に向けてつくられたものだが、一度だけの試射で実戦では一度も使われなかったという。この要塞を造った時の残土は、駐車場脇に小高い山となってあった。巨大な穴と小高い山を見るにつけ、国家たるものとてつもないことをするものだと思った。
そして猿岩。壱岐の火山活動の痕跡だ。高さは約45mと言うが、第四紀更新世(約258万年前〜約1万年前)の玄武岩で、波の激しい浸食で猿の横顔に見える奇岩をつくった。貫入岩のように天に伸びようとする溶岩の痕跡はすざまじい。写真を見ると、猿岩と向かい合う所にある岩も天を仰ぐ猿の顔に見えるのだが、どうだろうか。そう見えるなら新しい発見だ。


リキュールも美味しかった


ウミウの糞で白い左京鼻の岩礁


観光地をラッピングした地元バス


はらほげ地蔵


その猿岩をあとにすると、飲んべえにはうれしい焼酎工場見学。飲まない私には必要ない所だが、試飲したリキュールが美味しく、親戚へのお土産の焼酎とともに数本購入した。そして、展示してあった樽焼酎の絵柄がきれいだったので、一枚写真に収めて次の目的地=左京鼻へ。
風もなく美しい風景が広がっていた。なだらかな遊歩道の下には黒い岩場があり、先端が白くなった黒い岩礁が青い海に突き出ていた。実は、白い部分はウミウの糞なのだ。ガイドは必要以上にそのことを言いたがったように、何度もくり返していた。私はそれよりも黒い岩場や岩礁の方に興味があった。火山活動での玄武岩の柱状節理なのだ。壱岐は、元々古い火山島だ。原の辻遺跡のを囲むように広がる台地も溶岩台地だ。どこに行っても火山活動と無縁ではないだろう。ところで、左京鼻の名の由来はつぎのようだ。江戸期に壱岐が大干ばつに襲われた時、陰陽師の後藤左京らが、ここで雨乞いをしたことに由来するとある。昨今は温暖化や気候変動がよく言われるが、地球の歴史を遡れば、海面の高さもくり返し高くなったり低くなったりしている。陰陽師左京の雨乞いで雨が降り始めたかは知らないが、周りの黒い岩場は、海女の素潜り場と聞いた。男どもの素潜り場は、また別の場所という。
駐車場に戻ると、壱岐の観光地をラッピングした地元観光バスが一台。ラッピングはきれいで、車窓から見ただけの小島神社の写真などが載っていた。小島神社は引き潮の時に、歩いていける道ができるのだ。言わば、壱岐のモン・サン・ミッシェルだ。私たちは車窓から眺めただけ。また引き潮時でもなかった。
左京鼻のあとは、すぐ近くの「はらほげ地蔵」へ。海女の里として知られる八幡浦にある。満潮になると海まで浸かるという地蔵様だ。6体あり、亡くなった海女や鯨のための供養地蔵だそうだ。先の台風で波にさらわれた地蔵様があったそうだが、近くの海底で見つかり再設置されたそうだ。地蔵菩薩は人々を救済する仏様だが、実は閻魔大王の化身であるという事を「NHKチコちゃんに叱られる!」で知ったばかりだ。なので、ひとつだけお願いしたが、それは秘密。尚、すぐ側にある漁協の壁には「玄海原発再稼動絶対反対!」の文字が車窓から見えた。私も絶対反対だ。
そこから対馬行きフェリーが出る芦辺港はすぐ目と鼻の先。すぐに港に着いた。ターミナルの前には馬に乗った若武者像があった。少貳資時(しょうにすけとき)像という。調べると、資時は弘安の役(1281年)で壱岐を占領した蒙古東路軍と戦い、討ち死にした武将のようだ。壱岐守護代として19歳で花と散っている。前足を天高く上げた馬上の資時は、逆光の中、若くりりしく勇壮この上ないように見えた。壱岐や対馬は文化の経由地としてもあったが、攻められたり攻めたりという歴史をくり返した地でもあったのだ。
さて、今度乗るのは、ジェットフォイルだ。昼食はその中でとる事になっていた。しばらくすると、港口の向こうに船体が姿を現した。早い。普通のフェリーに比べて、とにかく早かった。


蒙古群と戦った少貳祐時像


対馬から到着したジェットフォイル


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壱岐・対馬行/その3(壱岐・原の辻遺跡)

物見櫓。左手山の上には一支国博物館


住居の中は1mほど掘り下げられている


入口に立てかけられた朝鮮式梯子


ネズミ返しが付いた穀物倉庫

一支国博物館をあとにすると、すぐに弥生の原風景・原の辻遺跡なのだが、途中安国寺のすぐ横を通った。室町時代の貴重文化財を多数所蔵している臨済宗のお寺だ。本堂の前には樹齢600年を越える長崎県指定天然記念物のスギが立っている。個人旅行なら寄ってみるのだが、車窓から見ただけだ。
さて、原の辻遺跡だ。私的には、壱岐の中ではここが最も印象に残った。ガイドが良かったかもしれない。メモなどを書いた書類を片手にかかえ、野球帽を少し深めにかぶって説明される姿は、遺跡愛そのもの。原の辻遺跡は、弥生時代の多重環濠集落あとだ。魏志倭人伝に出て来る「一支国」の王都で、国の特別史跡に指定されている。特別史跡は、“遺跡の国宝”だそうだ。弥生の特別史跡は、ここを含めて3カ所。あとの2つは登呂遺跡と、吉野ヶ里遺跡だ。登呂には行ったことはないが、吉野ヶ里は発掘され始めた頃と、整備されてからの2回行ったことがある。話はそれるが、ある講演の中で城郭考古学の千田嘉博さんが吉野ヶ里について次のように指摘した。杭が逆向きだと。杭は攻める側にあるはずなのに、攻められる側にあるとの指摘だ。今度訪ねたら確かめてみたい。
ところで原の辻遺跡だ。遺跡全体の形はほぼ楕円形で、あちこちに住居跡や穀物倉庫などが復元されている。藁葺き屋根で、その中は1mほど掘り下げられていた。その深さと、藁葺きの藁の向きが朝鮮式なのだそうだ。茅や藁で屋根を葺く場合、日本では普通穂先が上だが、ここの藁葺きは穂先は下なのだ。食材の倉にかけてある梯子も朝鮮式だそうだ。入口に立てかけられた梯子は、一木が踏み台の形に削られていた。裏返しにされた大きな下駄にも見えた。穀物倉庫には感心。床はY字の形をした枝木で支えられ、枝の分かれ目の下にはネズミ返しが付いていた。せっかく収穫した穀物をネズミにやられてしまったらたまらない。わが家では、乾燥が終わった籾は、コンバイン袋に入れてすぐに保冷庫に入れて15度保存だ。故にネズミも虫も付かない。しかし、数十年前までは厚手のスギ板で囲った所に保管していたが、毎年決まってネズミに穴をあけられていた。ということで、Y字のささえといい、ネズミ返しといい、感心することしきりだった。この他、物見櫓もあった。これは朝鮮から海を渡り、川を遡ってきた船が来るのをいち早く見つけ、迎えるためだったそうだ。すぐ側には、角が丸い住居の復元も。これも朝鮮形式との解説だった。
王が住んでいた場所は、樹木で囲まれた中央の小高い部分だ。小さな広場のようになっていて、その入口には、2本の丸太が両脇に立っていた。鳥居の元と考えられ、その上には鳥形の彫り物があった。私的にはGoodこの上無しだ。一通りの説明が終わると、もう夕方近く。おっと、忘れてはいけない。「日本最古の権」、竿秤(さおばかり)の分銅ことだ。日本で使われ始めたのは奈良時代以降のようだが、ここでは弥生時代後期には使われていたようだ。交易の場面で大切なものをはかるのに使われたものだろう。ただ、ツアー参加者には、竿秤そのものを知らない人もいた。時代と住んだ所の違いか? 名残惜しいが、夕陽が長い影をつくり始める中、ガイドとアシスタントの方に別れを告げバスに乗り込んだ。そして、お宿へ。


物見櫓と角が丸い住居


入口の丸太の上には鳥の彫り物


ガイド説明感謝(最古の権の前で)


大層なお宿ではなかったが、部屋からは入江が見えた。漁船の他、小さなドックも。波静かな入江はどこからでも魚釣りができそうだったが、気になったのは山の竹の色。竹という竹が黄色っぽいのだ。よく見ると樹木も茶色っぽいものがあった。それにお宿の軒の裏。部分的にスケスケになっているのだ。しばらくして気がついたが、あの台風9号と10号のせいだ。九州西海上を抜け、朝鮮半島へ北上した2つの大型台風だ。台風10号にいたっては、これまで経験したことのないような暴風や大雨、高波、高潮が発生すると予報された。幸い九州へ達する前に少し弱まったが、壱岐・対馬は台風のすぐ右側になり大変だったのだ。どこもここも新型コロナで大変な上に、壱岐・対馬は台風の強力パンチが加わったのだ。そんな中で出迎えられたお宿は久しぶりのツアー客だったのだろう、この日の夕食はとても豪勢だった。そして美味しかった。取れ立ての魚の刺身やアワビ等の他、少し薄くはあったが壱岐牛も。その上、デザートで終わりと思ったら最後にイサキの塩焼きまで。普段なら食べきれないところだが、美味しさのあまり全部平らげた。イサキの塩焼きは今でも忘れない味だ。ということで、満腹のお腹をかかえて旅の1日目は無事終了した。

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壱岐・対馬行/その2(唐津から壱岐・一支国博物館)


船首を持ち上げた姿はカマキリそっくり


玄海灘を壱岐へ

フェリーが出る唐津東港には余裕の到着だった。時々、九州自動車道や長崎自動車道が渋滞で難儀することもあるようだ。この日はスイスイ。ということで、フェリーはまだ着いていなかった。しばらくして港口に白い船体が静かに現れた。着岸直前にフェリーから岸壁に向けて細い綱が跳んだ。それを岸壁で拾った作業員が懸命に走ると、細い綱につながれていた太い綱があがってきた。太い綱の先は輪っぱになっていて、それを岸壁の突起にひっかけたれば無事着岸となる。めったに見ることができない作業なのでおもしろかった。この突起は「ピット」というのだそうだ。
もうひとつ興味をひいたのは船首の開き方。大きなフェリーではないが自家用車やバス、トラックなどを積んでいる。着岸したフェリーの船首は大きく上方に引き上げられ、まるでカマキリがカマを振り上げたような格好だ。その後、開いた船首から岸壁に向けてゆっくりと桟橋が降りてきた。そうやって、フェリーと陸がつながる。

フェリーに乗り込む時には、必ず検温があった。ピストル型の検温器がおでこに向けられると、何事でなくてもちょっといやな感じだ。しかし、コロナ禍にあっては感染防止上必要なこと。もちろんマスクもだ。3階の待合室からフェリーに乗り込み、席は左舷の椅子席をとった。唐津から壱岐に向うと、左舷側は呼子辺りが、右舷側は糸島あたりが見える。私は呼子辺りや名護屋城辺りが見たかったのだ。
唐津東港を出たフェリーは、船窓に玄界灘に浮かぶ呼子周辺の島々を見せながら順調に進んだ。玄界灘は時に荒れる。ずっと以前、壱岐に行く予定で呼子港まで行った事がある。その時は海が荒れていて欠航、無念の涙を飲んだ。今回は波静かだ。椅子席に座っていると揺れもほとんど感じない。だが、中間付近を過ぎて客室の外に出てみた時だ。立っていると体が大きく揺れる。手すりか柱につかまっていないと体が持っていかれそうだった。波静かに見えて、やはり中くらいの波はあったのかもしれない。その中をフェリーは順調に壱岐に向い、そして壱岐・印通寺港へ。初めての壱岐だ。


一支国博物館から見る原の辻遺跡(右の方)


復元された船(一支国博物館)

到着後は、フェリーに同船だったバスに早速乗り込み、最初の目的地へ。一支国博物館だ。車窓から見える風景は、小高い山々の中に田んぼや民家が広がり穏やかそのもの。壱岐は、魏志倭人伝に「一大国(一支国/いきこく)」として出てくる国だ。それ故楽しみにしていた。博物館に着くと、すぐに館内ガイドが付いた。最初は、長崎県内で発掘された土器などがたくさん積み上げられた部屋。通常はばらばらの土器破片が復元されたりしているところが見えたりするはずだが、当日はお休み日。ガイドからは、人面土器のことが何度か口に出た。よほど気に入っているのだろう。次は、上階のビューシアターへ。そこでは、朝鮮半島と日本を結ぶ架け橋として栄えた一支国の様子がスクリーンに映し出された。映像が終わると、新たな仕掛けが。するするとスクリーンがあがると、その先にかつての壱岐の中心地「原の辻遺跡」が見渡せるようになっていた。ひと時、外の景色を楽しんだ後は、両脇に展示物がある廊下へ。ゆっくり見たいが、ガイドはどんどん先へ進んでいく。当時の船が復元展示してある所付近で、とうとうはぐれてしまった。ツアーだから仕方がないかもしれないがあまりに時間が少なかったのだ。とうとう出発時間が近くなったので、入口近くの売店へ。壱岐では買いたいものがひとつあった。「鬼凧(おんだこ)」だ。ツアーの行程表では、買物ができる場所も時間も限られているようだったので、この売店で買う事にした。2、3種類大きさの違うものがあったが、一番大きなものを買った。ここでは売っていなかったが、もっと大きなものもある。それが欲しかったのだが、あってもツアーバスでは持帰るには無理だったかもしれない。この鬼凧は、武者「百合若大臣」と鬼の首領「悪毒王」の決闘を描いた壱岐市の伝統工芸品だ。その元になっている伝説は、こうだ。

壱岐には昔、鬼がたくさん住んでいて、島を荒し回り人々を苦しめていた。それを見かねた豊後の若武者・百合若大臣が壱岐にやってきて、次々に鬼をやっつけ、最後に鬼の大将「悪毒王」と相対した。激戦の末、百合若大臣が悪毒王の首を切り落とすと、鬼の首は空中に舞い上がり、百合若大臣の兜に噛み付いたがそのまま死んでしまった。
退治された鬼たちは、その後も天空から壱岐に戻る機会をうかがった。そのため、壱岐の人たちは、鬼たちが降りて来ないように悪毒王の首が百合若大臣の兜に噛み付いた様子を描いた凧を天に向けてあげたそうだ。


壱岐は、朝鮮半島と九州の間にある小さな島だ。古くから半島と行き来があり、交易の中心地でもあったから、時には様々な来訪者と土着者との争いもあった。そのため数多くの鬼伝説が生まれ、それを背景にして鬼凧はあるようだ。さて、鬼凧を手に入れた私はツアー参加者の羨望の眼(?)の中、時間ぎりぎりでバスに乗った。


壱岐の伝統工芸品「鬼凧」

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