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「原爆 いのちの塔」を見た






8月6日NHKスペシャルで「原爆 いのちの塔」を見た。
舞台は、原爆投下で壊滅的被害を受けた広島。その中で倒壊を免れた広島赤十字病院。そこに被爆者が殺到。骨折重傷を負った院長・竹内釼の指示のもと懸命の医療活動が続けられ、赤十字病院は「いのちの塔」と呼ばれた。

見終わって、母を思った。母は、広島赤十字病院の看護学校の卒業生だ。原爆投下時に、広島にいたなら、私はいなかったかもしれない。戦時中だったため、3年で卒業のはずが2年で卒業、広島を離れた。母の死後、看護学校時代の分厚いアルバム残された。卒業記念アルバムだ。表紙は、濃紺の地に赤い赤十字と白い看護帽子、そして「日本赤十字社 広島支部病院」の文字。そのまま残しておくのも一つの手ではあったが、古かったのでこれはと思うものだけ選んで、新たなアルバムに残しておいた。その中に赤十字病院の写真があった。原爆以前の1943年頃のようだ。確かに塔も写っていた。院長らしき写真のほか玄関前での集合写真も。この中に母が写っていれば、母20歳頃の写真だが、見定めることはできなかった。
卒業後の配属先は、佐賀県嬉野にあった海軍病院。8月9日11時2分長崎原爆。嬉野から長崎方面が赤く見えたとも聞く。入院していた患者は、全員病院外に移され箝口令。その日の夕方には、被爆者がトラック2台に乗せられてやってきたという。その後は、広島赤十字病院同様、懸命な医療活動が行われた。その日から戦場だ。母の生前、2度ほど看護内容をきいたことがある。「白血球を数えたり、湧くウジをとったり、茶渋を塗ったりした」と応えたが、詳細は聞かせてくれなかった。やはり辛い経験だったのだろう。そういう経験のため、母は「被爆者手帳」を持っていた。しかし病気することもなく元気そのもの。本人も含めて、誰しも100歳まで生きると思ってた。しかし、83歳の時、突然の病に倒れた。生きていれば、今年ちょうど100歳。もう少し詳細を聞いておけば良かったと悔やむ。
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福島を忘れない!宮崎いのちの広場










のぼり旗を準備していると、山羊を連れた一人の男性が会場に現れた。立派な角を持った山羊だ。集会に来てくれたのかと思ったが、通りすがりだった。残念。でもいい雰囲気だった。これなら行き交う人も集会に関心を示してくれるはずだ。集会が始める前は、ミュージシャンの方達が、2時間にわたって演奏やダンス、そしてスピーを交えてくれた。ナイスアクション!
その後、1時間の集会。再来年には宮崎市の西約120kmにある川内原発は、運転開始から40年を迎える。そして1986年にチェルノブイリ原発事故を起こしたウクライナでは、ロシアが核兵器さえちらつかせて軍事侵攻、原発をも攻撃し占拠した。なので、「川内老朽原発延長運転NO!」の訴えや、原発への攻撃に危機感を覚える訴えなどが続いた。
その後、「原発いらない」のプラカードなど掲げた後、午後2時46分には皆で黙祷。また、同じ頃集会とスタンディングを行なっている鹿児島からの連帯メッセージなどが紹介され、高千穂通から橘通のメインストリートをへて県庁前までパレード。先頭の街宣車からは、「川内原発で重大事故が起これば、宮崎県は壊滅的被害が予想されます。川内原発の延長運転は絶対ダメです!宮崎からも延長運転反対の声をあげていきましょう」と、行き交う人たちに呼びかけられた。

ふる里を失うわけにはいかない。原発の運転を続ければ、巨大事故リスクと行き場のない使用済み核燃料・核のゴミを将来世代に積み増すだけだ。それに、軍事攻撃の標的にされる問題まで加わってしまった。川内原発、やめてもらうしかない。戦争も絶対ダメだ!
福島を忘れない!宮崎いのちの広場(2022.3.13宮崎駅西口広場)/参加約250名。
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佐土原人形DVD


「賞・表彰」などと言うことには全く無縁・無頓着のため、染めの作品など、ほとんど展示会に出品したことがないが、ちょっと後悔していることがある。
2009年、関係者でDVDを制作した。関係者とは、佐土原人形制作者と佐土原人形に関心を寄せる約10人。佐土原人形は、江戸時代から続く土人形だ。約50年ほど前、岩波書店の雑誌『世界』のグラビアで全国の土人形が紹介された。その中に佐土原人形が入っていた。それを見た土人形の収集・研究の第一人者が、「自分が知らなかった人形がある」として、佐土原人形を高く評価した。代表的なのは、数あるジャンルの中で歌舞伎人形だが、職人たちが腕を競い合った明治期前後のものは、全国指折りと言って間違いない。独特のデフォルメと鮮やかな色使いには目を見張る。だがそのため、地元で評価する前に、都会の骨董商に買い荒らされたこともあるのだが・・・。
ところで、DVD制作当時「ますや」と「陶月」という2つの工房があったが、共に夫婦での制作、かつ高齢。いつまで続くか分からない状況だった。そのため、宮崎市文化振興基金事業を活用し、制作工程や技術、また背景などを記録し、万一に備えることにした。カメラは、某放送局の元編集者の友人との思いもあったが、素人の方がいいとの思いで、地元出身の元校長先生に依頼した。ナレーションは、演劇や読み聞かせをやっていた友人に頼んだ。だが肝心の脚本作りに苦戦。何度か書き直した末に、どうにかDVDとして完成させた。タイトルは、『伝えていきたい佐土原人形』。学校でも使いやすいようにと35分に編集。気になるところはあったが、まずまずの出来で、「優」ならずとも「良の中」程度にはなった。関係者間の試写でも好評。出来上がったDVDは、地域の学校をはじめ、県立図書館・美術館・博物館にも収めていただいた。欲しい人には一部1000円で買っていただいた。その後、地域の方々へのお披露目会やTV出演など済ませた頃だったか、元編集者の「コンテストに出してみたら」との声。その気になり「地方の時代映像祭」に出品したところ、エントリーの通知。それは、毎年関西大学構内で行われる全国的なもので、「地域」に焦点を当てたドキュメンタリー作品が数多く集まるコンテストだった。そこでエントリーされたのだった。
だが、ここでちょっと困った。エントリーされたとはいえ、出かけて行くにはそれ相応のお金が必要だし、時間も必要だ。それに作品に気に入らない部分もあったため、皆には知らせずにパス。なので、当然「賞」は無し。「賞」が取れたかどうかわからないが、関係した皆には申し訳ないことをした。もちろん、「賞」が欲しいなどとは、ちっとも思わなかったのだが、今思えば、少し後悔、皆で遊びのつもりで出かければよかったと思っている。
尚、現在佐土原町内では、江戸末期から続く「ますや」は、若い女性が跡継ぎに手をあげたが、「陶月」は廃業となった。他に、独自の土人形で全国展開に道を開く若い女性が、新しい工房を開いた。今後を見守りたい。
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魅力あるYouたち


TVで「Youは何しに日本へ?」を久しぶりに見た。日本を訪れる外国人たちを、空港や街角などでインタビューする番組だ。アポなしだ。この日のYouの後半は、尾道市に住む南アフリカ共和国のフィリップさんから始まった。昼間の取材から夜の取材へと話は続く。
自転車を押して歩くフィリップさん、うらびれた飲み屋街にある一軒のバーへと入っていく。かなりディープなバーのようだ。するとそこには、たくさんのYou達。その中のひとりにインタビューが始まった。なんと、あのアーサー・ビナードさんだ。アメリカ生まれで広島市在住の詩人であり、随筆家、翻訳家でもある。一冊だけだが、私の本棚にもこの人の本がある。編著『知らなかった、ぼくらの戦争』だ。肌感覚として共感を覚える本だ。記憶に残っているのは、「日本語の『戦後』に遭遇して、初めて『戦後のない国』に自分が育ったとことに気づいた。」という話と、パンプキン爆弾のことなどだ。もう少しこの人へインタビューが続くといいのにと思ったが、次に出てきた青年も実に興味深い人。名前はトーマスというアメリカ出身の青年だ。奥さんは日本人だ。「島で何かやってる・・・」、「みかん小屋・・・」などと要領を得ないことを言う。翌日の昼間か、カメラは「みかん小屋」を訪ねる。尾道市街から300m離れた向島だ。そこから20分だったか、そこには、みかん保存用だった小屋をリノベーションした住宅が建っていた。お気に入りの木製バルコニーも作られ、そこからは瀬戸内海も一望できるようになっていた。
ここまでならありそうな話なのだが、みかん畑だった放棄地を小屋ととも買い取り、理想郷へと改造中なのだ。次のシーンで、トーマスさんは敷地の一角に袋から粘土団子を取り出してばらまいた。すぐに「福岡正信さん」を思い出したが、まさにその通り。野菜の種が練り込まれた粘土団子だった。粘土で包まれた種は、鳥や虫から守ることができ、適度な湿り気があると芽が出てくるというわけだ。さらに出てきたのが元気な羊たち。その羊たちは雑草だらけの耕作放棄地だった所を雑草をきれいにしてくれ、その上、フンは野菜の肥料になるという一石二鳥の仕組みだ。そう、トーマスさんは大学時代に故・福岡正信さんの『わら一本の革命』を読んでいたのだ。福岡さんは、「自然農法」を提唱した人で、粘土団子で砂漠の緑化を成功させたことで知られる世界でも有名な人だ。
その後、自然栽培の野菜を近所や尾道市街で販売するシーンが続いた。自転車の後ろに野菜BOXを引っ張っての売り歩きだ。この日の売り上げ2万円。すごい!。帰宅すると、トーマスさんの野菜などを使った奥さん手作りの夕食。おいしいはずだ。奥さんとは尾道で知り合い、結婚はビニールハウス内であげたという。その時の写真には、ビニールハウス内でたくさんの近所の人たちに囲まれた二人が写っていた。
トーマスさんは福岡さんに憧れて日本にやってきて、提唱の「自然農法」を実践しているのだからすごい。
私の方は、読んだ本の内容も右から左。畑だけは化学肥料や農薬から解放されつつあるが、まだ序の口ならぬ門前の小僧。『知らなかった、ぼくらの戦争』と『わら一本の革命』、読み直してみたい。
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初日の出(宮崎市佐土原海岸)


例年なら初日の出の時分は地区の神社で神事なのだが、今年はコロナ感染防止のため中止。ということで初日の出を見に近くの海岸へ。梅雨の頃ならアカウミガメが産卵に上陸する砂浜海岸だ。海岸へ出る川沿いの堤防道路は現在拡幅工事中。そのため軽トラックで出かけた。
10号線を横切り、途中の信号から堤防へ出る道路に折れると、後ろからも軽自動車が2台付いてきた。この分なら浜には既に何人かいるかもしれないと思いながら急いだ。なにしろ時刻は日の出10分前。
浜近くまで行くと既に車がいっぱい。護岸前の駐車スペースは車で埋めつくされていた。この分では路上駐車かと思いなが車の間を進むと、うまい具合に軽トラックなら停まれる空きスペースが見つかった。帰りのことを考えるならバックで入れるべきところだが、そのような余裕もないまま頭から突っ込んだ。今まで何回も浜に来ているのに、駐車スペースは車、車、車で埋めつくされていた。ということは人もいっぱいのはずと思い、砂浜に出て数えてみた。1、2、3、4、5・・・・50、・・・100・・・200。ここまで数え、面倒になりやめた。数えたのは半分ほどだったので、多分400人〜500人ほどの人たちがやって来ていた。
日の出の時間になったが、地平線の上には雲。早く出てくれと日の出を待つ気持ちは皆同じようで、皆今か今かと東の方を見つめていた。太平洋からゆったりと向って来る波は、砂浜付近で冷たい大気に触れて少し湯気のように立ち上っている。後ろを振り向くと西の空には満月をすぎたばかりの白い月。俳句でも詠めればいいのだが・・・。
そのような中、日の出の時刻より待つこと約10分。地平線の上にかかる雲の上から空と海を金色に染めながら太陽が顔をのぞかせた。
穏やかであれ2021年。



日の出前


西の空には月が
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ピッタリ手作り立体マスク


ちょうど2ヵ月前、友人から「もうマスクが店頭にない!」と電話をもらった。ちょうど熊本地震の爪痕見学で熊本にいた時だ。その時は、まだゆっくり構えていた。どこか大きな店に行けば手に入るだろうと思っていた。
布田川断層などの見学を終え、友人らと昼食を終え、お土産を交換し帰路についた。御船恐竜博物館をゆっくり見たいとは思っていたが、またの機会とし、御船インターから高速道に乗った。走り慣れた道ではあるが、八代 - 人吉間はトンネルの連続だ。そこを抜ければゆっくりした登り坂が続く。そして熊本 - 宮崎県境の長いトンネル。以前は加久藤越えと言われた難所だったところだ。トネンルを抜けると、正面に霧島連山、眼下はかつての巨大噴火の痕跡(加久藤カルデラ)が広がるえびの市だ。そのまま宮崎市まで高速道を利用しようと思えば、都城方面へ向うが、距離的に遠くなるので、私はえびのインターで下車するのが常だ。そこから国道を利用し、小林経由で宮崎市までゆっくり帰るのだ。この日もそのルートを選択した。
マスクのことを思い出して、小林市でドラッグストアに立ち寄った。すぐにマスクコーナーへ向ったが、棚はほとんど空っぽで数点並んでいるだけ。それも高価なものばかりだった。しかし、足もとを見るとひとつのダンボール箱。そこには、小さめと書かれたマスク。一足遅かったみたいで、普通の大きさのマスクはひとつもなかったのだ。ちょうど値札を付け替えていた店員さんに、小さめと書いてあるけど、大人でも使えるか尋ねたら「人によります」との応え。私の顔は大きめ、それに値段も高いしムムムッと迷ったが、この先買えないと困ると思い20枚入りのマスクを買った。
それから2ヵ月。どこのお店に行ってもマスクコーナーは空っぽ。同じくアルコールスプレーもなし。ネット上では、通常の何倍もするような高値で売り出されたりした。「いったいこの国はどうしたのだろう・・・・。」とも思いたくなる。
そのようなことで、行き着いたのが手作りマスク。あれこれネット上を探してみて、これがいいと思ったのが「株式会社コッカ」が公開している手作りマスク。今回の新型コロナウイルス対策より前から公開されているようで、ありがたい。型紙をプリントアウトし、さっそく連れ合いに作ってもらった。

◎簡単手作り!立体マスクの作り方(大人用・子供用 無料レシピ&型紙あり)
◎手作り立体マスク作り方
◎実物大型紙
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新型コロナウイルス感染爆発前夜か!



友人が送ってきた空っぽの食品棚

新型コロナウイルスが世界に広がり、日本でもじわりと広がる気配をみせている。東京では3日連続で感染者が40人を超え、不要不急の外出自粛が呼びかけられている。じわりというより、爆発的に感染が広がる前夜なのかもしれない。
外出自粛が呼びかけれて以降、首都圏に住む友人は、空っぽになったスーパーの食品棚の写真とともに次のようにLINEしてきた。「卵ない、乾麺うどんない、冷凍うどんない、鶏肉、ひき肉、なー(ん)もない、カップ麺、米、小麦粉なーい、スパゲッティ、バナナ、なーい」と。食べ物を求めて買い込まれているのだろうが、一方では食事処はがら空だ。外出自粛とはいえ、食料や医薬品の買い出しなどは制限されていないので、ここは冷静に対応したいと思うのだが・・・。

人の行き来が多い現在だから、田舎に住んでいても感染が広がらない保証はない。このところ、地区での会合をはじめ、関係する市民団体やグループ等の会合も中止や延期が相次いでいる。例年なら、3月〜4月は決め事の多い時期だから中止や延期は頭がいたい。しかし、新型コロナはすぐすぐ収まるわけではないので、今年は長期戦を覚悟して様々な事に対処することにした。そのための情報源のひとつが、ノーベル賞を受賞された山中伸弥さんが個人的に立ち上げられたホームページだ。ぜひみんなで共有したいと思う。

◎山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信
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正月の散歩


元旦は雲ひとつない快晴だったので、我が家から海岸まで歩いてみることにした。約4km強といったところだ。いつもは車だから、海岸まで歩くのは子どもの頃以来。歩けばいつもとは違う風景に出会うはずだ。
1kmと少し歩いたところで10号線。その下をくぐり、歩を進めると日豊本線の下。本線を支える道両側の法面は、四角に成型された石積みで、時代を感じさせる。そこを過ぎれたところで堤防へ上がった。100mも歩けば、支流が合流する水門が目の前だが、手前に整備の行き届いた小さな公園があった。堤防上は、サイクリング道路も併設されているので、多分、休憩場所としてつくられているようにみえた。ちょうど靴ヒモが緩んだのでここでしっかり締め直した。ここまでは、いつもの風景と大差なし。ただ、堤防の下にある建物が排水機場であることを初めて知った。大雨時には、わが集落からも係が出かける所だ。いつもわが集落の係が中心になり、大きな排水機を動かすようだ。排水機が動かないと、支流側の集落や田畑は大きな被害を受けることになるため、各集落からの係は重要な任務を担っているのだ。

さて、水門を過ぎれば、かつては旧10号線が通り、ぎやかだった集落。夏には氷やトコロテンに人が集うお店や自転車屋さんなど沢山のお店が並んでいたが、今は釣具屋と自販機が目につく程度という静かさ。川には旧10号線のなごりの橋脚がポツンと寂し気だ。集落を横目に数百m歩くと、堤防のかさ上げ工事が進む所に出た。歩き始めて2kmほどの所だ。それまで竹やぶに遮られていた本流側の視界は、ぐっと広がった感じだ。堤防の幅は倍ほどに広がっている。下流域の景観は広々してなかなかのものだ。川の流れに乗って移動しているカモの群れが、のどかさを倍加させている。カモの群れは陽が沈むと我先に田んぼにやってくるのだが、昼間は池や川でゆっくり休んでいるのだろう。

3kmを過ぎ、どうにか河口近くにやってきた。ここには入江が浜に沿って長く伸び、野鳥のサンクチュアリーになっている。全国でも珍しいクロツラヘラサギもやって来る。ひょっとしたら観察できるかもしれないと、目を凝らしてみたが近くにはおらず、入江の奥の方にいるようだった。その途中では、カモの群れが岸辺で羽繕いの真っ最中のようだ。帰りにその方向を目指すことにして、散歩の折り返し点の海辺へ。我が家から4km強だ。かつては雄大な砂浜が続いていた。幅は100mほどもあり、砂浜を横切るには、足の裏が焼けそうなほどだった。しかし、今は全国の砂浜同様海岸侵食に悩まされ、幅はぐっと狭くなった。ひどい頃は砂浜なくなり、松林のそばまで波が押し寄せていた。しかし、養浜や巨大サンドパック工法といった対症療法で、どうにか数十m幅を維持し、アカウミガメの産卵などに対応している。
この日の波は大きく、サーフィンには絶好とも見えたが、元旦のためかサーファーの車は数台。これから海に入る相談をしているようだった。太陽の光を浴びて銀色に輝く太平洋は、厳かに美しかった。





目的地に着いたあとは、違う道を通っての帰路だ。せっかくなので、クロツラヘラサギがいる所を通って帰ることにした。入江は道路側にびっしりと竹が生えているため、野鳥にとっては絶好の休息地だ。観察するにしても、竹やぶの切れ目からそっと見るだけだ。ただ、その手前のカモの群れが休息している所だけは竹がなく、羽繕いしていたカモの群れは、私の足音を感じたのかいそいそと岸辺を離れていった。その近くには、水面から突き出た棒の上で、カワウが一羽、獲物を狙う目で睨みをきかせていた。困ったことに、カワウがここ数年とても増え、朝夕は編隊を組んで集団移動するのをよく見かけるようになった。カワウは大食漢なので、増えすぎると魚が減り、生態系のバランスは崩れる。そこを過ぎれば、クロツラへラサギだ。竹やぶの隙間からそっと覗くと、特徴的な黒い嘴がかすかに見えた。ところが、そこを過ぎて小さな橋に出た所で、ヘラサギは私の姿を認めたのか、これまたいそいそと入江の中程にあるヨシの茂みへ、姿を隠してしまった。残念無念、双眼鏡を持ってきていなかった。自然観察では、「そっと観察」が一番大切だ。ということで、後ろ髪を引かれながら帰路の道へ。





入江を離れると、たくさんのソーラーパネルを見かけるようになった。50kWずつくぎったものも見受けられ、太陽光発電団地そのものだ。以前はウナギ養殖が盛んに行われていた所だ。しかし、だんだんウナギ養殖も右肩下がりになり、多くが太陽光発電用地へと変貌していた。その多くは県外資本なのか、知らない社名が多数あった。太陽の光という地域資源を活用して地域にお金を回すというより、大半のお金は県外へ流出しているのが実状かもしれない。

ソラーパネルの一群を過ぎると、あとは田んぼの一本道。そう思ったのだが、旧10号線が通っていた集落の手前で行き止まり。ちょっと困ったが、少し引き返し別の道へ。ここで「犬も歩けば棒にあたる」の事のごとく、電柱にとまっているミサゴを見つけた。向こうも私を見つけたらしく、しばし睨み合いが続いたが、ミサゴが根負けして電柱を飛び立った。よく見ればそ、のミサゴの足もとには銀色に光る魚。河川敷の方へ飛び去ったが、その方向には別のミサゴも飛び回っていた。奪われるのを恐れたのか、再び元の電柱へと帰ってきた。あまり見つめると、せっかくのごちそうも台無しになりそうなので、ミサゴには静かにサヨナラした。

旧10号線集落で賑わっていた三叉路には、今も石の道標が立っている。結構な大きさだ。宮崎、高鍋、佐土原、高岡、都城、美々津、延岡などの地名が刻まれている。交通の要所だったという証明のようでもある。バスも通っていた。バスに乗って通った記憶が微かにあるので、かつてのバス通りへと歩を進めた。両側はこぎれいな住宅地になっていたが、とても狭く、こんな所をバスが通っていたのかと思うほどだった。道路幅から考えれば、かつてのバスは、今のコミュニティバスほどの大きさだったようだ。そこを過ぎれば、我が家まで約1.5km。日豊本線下や10号線下をくぐり、昼食の待つ我が家へと帰り着いた。これで約10km強。天気快晴で暖かく、元旦からいい運動だった。
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ギャラリー閉店、そして新年




主宰していたギャラリーを昨年いっぱいで閉めた。17年間のギャラリー活動だったが、ギャラリー上棟時の「せんぐまき(餅まき)」のことがついこの前のようだ。月日が過ぎるのは早いということか。ほとんど地域活性を兼ねたボランティア感覚の運営だったので、金銭的利益はほとんどなかったが、世間的にはうらやましがられていたようだ。表面的には楽そうで良さそうに見えていたのかもしれない。金銭的には無理があったが、人や作品との出会いは財産として残った。得たものは多い。
ということで、正月を過ぎても後片付けに追われる毎日だ。片付けても片付けても、後から後からゴミと不要品が顔を出す。私の所だけでこの始末だから、人類全体ではどうなることか。産業革命以降の人類のエネルギー消費は右肩上がりだ。中でも最近は、エネルギー消費もゴミも急カーブで上昇している。このままでは、近いうちに人類はゴミに埋もれて死ぬということか。

年明けは例年のごとく地区にある神社での新年祭から始まった。まだ夜も明けぬ内から神社へと急いだ。家並み越しに時々見える東の空は、全く雲がなくかつてない美しさ。若い夫婦の足音を後ろに聞きながら鳥居をくぐると、たき火のまわりは既に地区の人がいっぱい。たき火の材料は、昨年の台風で落ちた枝木や、境内周囲の梅の剪定枝木がたくさんで、材料に困ることはない。
それぞれに新年のあいさつの後、皆たき火から拝殿へ移動。神職は、親の後を引き継ぎ、今年で2回目の新年祭。そのためか仕草も祝詞も先代とは違うように感じる。時折裾踏む仕草は練れぬためだったのだろうが、それもまた良しだ。その後の地区役員の拝礼も新人が数人。慣れぬ手付きでパチパチ。どうにか拝礼が終わり、祭典無事終了。
祭典が終わると、皆が目指すのはたき火のまわりだ。そこで炙ったシシャモやイカを片手に、お酒を回しながらしばし談笑。いつもは焼酎ばかりなのに、この日だけは日本酒が振る舞われた。それも金粉が入ったものだ。そうこうしているうちに、太陽は地平線からすっかり顔を出し、みんなの顔をぴかぴかに照らし出していた。こうして、例年にも増して素晴らしい初日の中で新しい年を迎えた。良き年でありたい。
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圧巻の尺玉花火





夏に予定されていた地元の花火大会は、台風17号が近づいたため中止。しかし、開催を望む声が多く延期開催ということになった。「一ツ瀬川花火大会2019」だ。
ということで、その花火大会は、秋が深まった11月19日(火)に行われた。いつもなら集落のあちらこちらで焼肉パーティーが開かれているのだが、冬間近の夜は冷え込んだ。そのため焼肉パーティーが開かれていたのはたったの1軒。集落の真ん中を抜ける道も見物客でごった返すのだが、この日はパラパラ。それでも、わが前を歩いていく娘っ子7、8人は、おんぶしたり飛び上がったりと青春そのもの。暗闇の中でも声が輝いていた。

娘っ子達を追い抜き、近道を抜けて堤防に上がった。ここも人まばら。冷え込んでいる上に、火曜日という平日の夜だから仕方ないかと思ったが、しばらく歩くと、歩道にテーブルを出してビール片手の女性たち。どうも女性の方が元気がよさそうだ。男性若人はと言うと、その先でクルクル回る赤色灯をつけた消防車を止め、誘導灯片手に道案内。ご苦労さま!。いつも見物するのは消防車が止めてある少し先と決めている。尺玉花火を見るには、メイン会場よりここが一番なのだ。ここ数年、尺玉花火がなく、何となく気の抜けたビールみたいだったが、今年は復活した。頭上で花火が大きく花開くとともに、ドーンと大きな音が響きわたる。尺玉は最高だ。見るというより体感すると言った方がいいかも知れない。
気がつくと、周りにカップルや親子連れが増え始めていて、少し花火大会らしくなっていた。やがて、右手前方で最初の花火が打ち上げられた。空気が澄んでいるのか、いつもよりきれいに見えた。それらを楽しんだ後、待ちに待った尺玉花火。シュルシュルと眼前に登っていく花火は一本の龍が登っていくようだ。そして、頭上に大きな花が咲くと同時にドーンという音が体に響いてきた。今年の尺玉は少し色気が増した気がしたが、やっぱり尺玉はいい。もう終わりかと思い帰りかけたら、フィナーレの尺玉がすごかった。連続して響く花火音。おお、圧巻!。遠方より来ていた友人も感激ひとしおだった。





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