日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。
野のアザミ
甑島(里港のヨットや魚たちが描かれた防波堤)
微かな不安はあったが、串木野新港へのフェリーは出港すると思っていた。なのに、港からは欠航のアナウンス。ほぼ同じ時刻に、旅行会社からも欠航の知らせと宿泊所を探してくださいの電話。
さて、どうする。ホテルに電話しても、空きがないとのこと。困った。待合所に戻り、案内所で何か方法はないか聞いてみた。言うには、漁船で帰る方法があるという。他所の人も含めて、1人数千円かかるようだった。海は次第に荒れてくるので、早く決めてくれと言う。そうこうするうち、串木野側からのフェリーが里港に着いた。修学旅行の団体も降りてきた。並ぶ行列に、船は揺れたのか尋ねてみた。大きく揺れましたとの応え。続いて降りてきた年配者にも尋ねてみた。揺れには大丈夫と思っていたが、吐きそうになったとの応え。結構大きなフェリーなのに、相当揺れたようだ・・・。
そういうことも含め、参加者で協議した。漁船で帰りたいという者もいた。私は、一度大きな揺れを経験してもいいと思っていた。協議は、一度は漁船に傾きかけた。しかし、怖いとの声もあり、最終的にはもう一泊することに決めた。成り行きを見守っていた案内所の方などに、漁船では帰らないと告げた。だが、問題は宿泊先だ。ホテルに引き返し、フロンテであれこれ尋ねると、うまい具合にキャンセルが出たようだった。合い部屋だが、3部屋に別れるなら全員宿泊可能という。ということで即決、無事、宿確保となった。
それぞれの部屋へ分かれ、あとは夕食まで自由時間となった。ある者は岸壁で魚釣りをしたり、あるいはスケッチをしたり。また、ある者たちは、部屋でおしゃべりやお風呂等気ままに過ごした。私は、気分直しに里港周辺を一人歩きに出てみた。港越しに見える防波堤の絵が気になっていたのだ。青く塗られ、そこにわき上がる雲やヨット、フェリー、貨物船、クジラ、灯台などが描かれ、見る場所によっては、青い海そのものに間違えそうば所もあったのだ。ただ、その日は風が強かった。なので、私が行ったのは、フェリー発着側の防波堤。案内所駐車場の横にある防波堤だ。そこには、青い海の色をバックに、サンゴや海藻、アジ、タコ、アジ、ヒトデ、サメなどたくさんの海の生き物が描かれていた。竜宮城があれば、きっとこうなのだろう。楽しい絵がいっぱいだった。
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甑島(市の浦海岸、亀城、里の武家屋敷跡)
3日目ともなると、地理も少しは分かるようになった。主な観光地は、前日までに済ませてある。あとは、里町周辺だけである。昼食の後は、串木野新港に向けてフェリーに乗り込むだけだ。
雲は出ていたが、時折日がさし天気はまずまずだった。最初に向かったのが、北端に近い市の浦海岸。里町からひと山越えればすぐの所だ。緩やかな湾には、きれいな砂浜が広がり、岬の先には島々が浮かんでいた。久しぶりの穏やかな天気に浮かれ、砂浜でしばし遊んだ。だが、この海岸は歴史を秘めた海岸でもあった。ここに来る途中、「七人合頭・八人合頭」という説明板があった。甑島先住者と後に島を支配していく小川氏との合戦跡だ。小川李能(すえよし)は、承久の変(1221年)で鎌倉方ににつき、宇治川の戦いで手柄をたて、その功労として甑島などを領地として下賜され、その子李直(すえなお)が、上陸したのが市の浦海岸だったのだ。というようなことで、この日は出航するまで、少しディープな歴史散策となった。
次に案内されたのが、「史跡・小川の森」だ。小川氏歴代当主の墓や武士団の墓とともに、それを祀る菩提寺があった所だ。荒れてはいたが、地元では今でも「寺の後」とか「門の口」と呼ぶという。そして、里町が見下ろせる亀城跡へ。小川氏が13代、370年に渡って甑島を治めた本拠地だ。今は公園になっている。階段を上がった正面に、ずらりと名前が刻まれた慰霊碑があった。その中に塩田某という名前も。小川氏はのちに、上甑島は塩田備前守にあずけ、下甑島手打に住まいを移したと説明板にあった。手打の武家屋敷跡が、里の武家屋敷跡に劣らず美しいのはそのためだろう。
そして最後が、普通なら一番最初に訪れるだろう「里の武家屋敷跡」だ。整然と積み上げられた石垣とその上の緑の垣根が美しく、歩いてみたかった場所だ。7、8人で散策した。と、その一角に「石敢當」を見つけた。読みは、「いしがんとう、せきがんとう、せっかんとう」などだ。道路がTの字に突き当たった所などに立てられた石碑や石標だ。魔よけのためという。沖縄で大きなものを見たことがある。わが佐土原にも、島津の支藩だったために残されている。佐土原のものを「東の石敢當」とすれば、ここにあるのは「西の石敢當」とも言える。だが、わが地の旧城下町は、物語こそ掃いて捨てるほどだが、整備が遅れて廃れていくばかりだ。
そうこうしているうちに出港の時間が近づいた。しかし、その時港の方から聞こえてきたのは、「今日の高速船は海が荒れているため出港しません」のアナウンス。だが、私たちが乗るのは川内港行きの高速船ではなく、串木野新港行きの普通フェリーだ。出港するはずだ。はたして・・・。
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甑島(里町の空間放射線測定局)
甑島に行く前、ネットや観光パンフなどでいろいろ情報を集めた。また観光案内所にも、電話で島のことをいろいろ尋ねた。
案内所曰く、「島にはコンビニはありません。食事処も島内の人が利用するので、事前に予約しておいた方がいいですよ。」と教えてくれた。団体だと、飛び込みでの食事は難しそうだった。それに、詳細情報を集め始めたのは、東京オリンピックの頃。ちょうど、九州でも新型コロナが増えていて、県を超えての移動は自粛が呼びかけられていた頃だ。そのためか、紹介していただいた島在住の方も、電話先でちょっと来て欲しくない感じ・・・。島は高齢者が多く、病院関係も限られているためのようだった。そのことを頭に入れた上で、計画を練った。外国のコロナ感染状況などを見ながら、国内のデルタ株も急速に下火になると判断し、11月初頭の旅行を企画した。それを元に、旅行会社が全面協力。無理かと思われた食事の手配も無事やってくれた。さすが、旅行会社だ。
ということで、2日目は地元食事処で、魚料理中心の夕食ということになっていた。ところが、外は急に風雨が強まったり、雲間から月がのぞいたりの不安定な天気。そのため、車で行くか歩いていくかで議論白昼となった。参加者は日頃から議論が好きな面々だ。結局、歩きたくない人はレンタカーで送ってもらい、あとの人は歩いて向かうことになった。私は、当然歩き。広い道から高いブロック塀に囲まれた狭い道を黙々と歩いた。歩いてみれば何ということはない距離だった。着いたところは、魚料理中心の食事処。そこの自慢は、その日漁れたキビナゴ。うん、うまかった。他の刺身もうまかった。話も弾んだ。だが、そのせいか、あとの料理を覚えていない。写真も撮っていない。何たる不覚!
ホテルへの帰りも歩いた。行きより帰りの方がずいぶん早い感じがした。ところで、「犬も歩けば棒に当たる」だ。広い道を歩いていると、歩道脇の丸い円筒状のものが目に入った。目をこらしてみると、空間放射線測定局の文字が目に入った。
ここは川内原発から30km圏内だったのだ。歩いたからこその発見だった・・・。
(写真は、翌日撮影した空間放射線測定局)
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甑島断崖クルーズ(東海岸コース)
さて、次もまた今回の目的のひとつ「遊覧船かのこ」による断崖クルーズだ。目玉にもしていた。だが、自然はまたして私たちの前に立ちはだかった。予定していた西海岸コースが、荒天のために東海岸コースに変更になったのだ。東海岸は、西海岸に比べれば穏やかだ。200m級の断崖もない。なので、個人的には少し期待度ダウン。それでも船に乗り込めば、気持ちは昂った。
最初に目指すは、甑大明神橋。真ん中の支柱から左右にワイヤーが伸びた美しい橋だ。少々波が高いが、海から見る橋はまた格別。天気が良ければ、橋の下をくぐって、東シナ海へ抜けることができるのだが、ちょっと無理。ということで、しばし眺めた後、鹿の子大橋へ。橋を支えるアーチがこれまた美しい。ここは、天気が良くても船で向こうに行くのはちょっと無理のようだ。ただ、天気がいい時は、橋南端(写真では左)のアーチをくぐって少し歩けば鹿の子断層に行けるはず。だが、ガイドなしでは行かない方が無難だ。
鹿の子大橋を見納めた後、クルーズ船は上甑島南端の茅牟田崎方面に向けて大きくターン。そして着いたのは、海上に突き出た岩列。たしか、馬の立髪に見たてた名前が付いていた。次に目の前に現れたのは、三角形の大きな断崖。地層は大きく傾き、そして大きく食い違いをみせていた。実は、これこそ地質構造百選・鹿の子断層の延長部だったのだが、この時は全く知らなかった。帰ってから文献等を調べてみて気付いたのだ。クルーズ船に改めて電話でたずねると、その場所は「赤クエ」と教えてくれた。その名前から察すると、語源は「赤い崩れ」だろうか・・・。西海岸に行けなかったが故の、大きな発見だった。東海岸コース、侮るなかれだ。
そして最後は、昨年通れるようになったばかりの甑大橋だ。波を蹴立てて大橋に向かった。大袈裟ではない、シート横の窓には波しぶきがかかった。次第に大きくなる波は、船を前後にも揺らし始め、これ以上は無理という所まで行って橋を眺めた。甑大橋は、中央部が船が通れるように上に向かって緩やかにカーブしている。優雅できれいな橋だ。甑島の橋は、どれも個性的で美しい。橋を眺めるだけでも、なかなかいいクルーズが楽しめる。加えて、鹿の子断層の延長部も見ることができて、図らずも大きな成果を得ることができた。こうして、「遊覧船かのこ」でのクルーズは無事終了。港に着くと、案内していただいている方が待っていてくれた。だが、その日の昼間のスケジュールはこれで終わり、あとは島料理の夕食を待つばかりだった。
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甑ミュージアム恐竜化石等準備室〜鹿の子断層
鹿島断崖を見た後は、目的のひとつ「甑ミュージアム」だ。正式名称は「甑ミュージアム恐竜化石等準備室」。場所は鹿島支所内だ。準備室ではあるが、その内容の豊富さには驚かされた。1階の一角と2階に分けて化石などの標本がいっぱいだ。1階には恐竜の全身骨格の展示数点が目を引く。壁一面にもなる最も大きなものは、甑島から出た化石の一部を元に作られたものだ。とても大きい。2階にも、元村長室も占領して化石標本などが所狭しと展示されていた。準備室の方から丁寧な説明を受けたが、見るだけで精一杯。それほど多種多様なのだ。説明のあとは、やはり2階のクリーニング室へ。掘り出した岩石から化石を削り出す部屋だ。作業も見せていただいたが、できれば体験もしてみたかった。時間もなく、ちょっと残念。
近年、下甑島の姫浦層群からは恐竜の化石がいくつも見つかっている。肉食恐竜の歯や肋骨の一部のほか、角竜恐竜(草食恐竜)の仲間の歯根も見つかっている。角のある草食恐竜だ。その歯根は、角竜類のなかでもケラトプス類に分類できるのだそうだ。頭の後ろに、襟飾りのようなものを持つ恐竜だ。ケラトプス類は国内初、アジアでも数例なのだそうだ。ならば、実体的レプリカが欲しいところだが、今は準備室。甑島では、今後も新しい発見がどんどん続くようだ。なので、甑島ミュージアムは、いずれ、日本でも有数の恐竜ミュージアムになるはずだ。
ミュージアムの後は、日本地質構造百選の「鹿の子断層」へ。案内は、ミュージアムの方へお願いしていた。鹿の子断層は、中甑島の北部にある。案内の車に先導されて、鹿の子大橋近くの駐車スペースへ。そして、橋の下を歩いて西海岸へ向かえばすぐのはずだった。だが、とても強い風。そして波高し。歩けるはずだった海岸部は、荒波が打ち寄せていた。これではとても無理。ということで、現地観察断念となった。
現地観察はできなかったが、鹿の子断層は約8mの破砕帯を持つ巨大な正断層だ。北側に始新世の河川堆積物、南側が白亜紀後期の姫浦層群だ。層序の違いから約800mずれていると推定されている。観たかった。だが、自然には勝てない。機会があれば再挑戦だ・・・。
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