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「原爆 いのちの塔」を見た






8月6日NHKスペシャルで「原爆 いのちの塔」を見た。
舞台は、原爆投下で壊滅的被害を受けた広島。その中で倒壊を免れた広島赤十字病院。そこに被爆者が殺到。骨折重傷を負った院長・竹内釼の指示のもと懸命の医療活動が続けられ、赤十字病院は「いのちの塔」と呼ばれた。

見終わって、母を思った。母は、広島赤十字病院の看護学校の卒業生だ。原爆投下時に、広島にいたなら、私はいなかったかもしれない。戦時中だったため、3年で卒業のはずが2年で卒業、広島を離れた。母の死後、看護学校時代の分厚いアルバム残された。卒業記念アルバムだ。表紙は、濃紺の地に赤い赤十字と白い看護帽子、そして「日本赤十字社 広島支部病院」の文字。そのまま残しておくのも一つの手ではあったが、古かったのでこれはと思うものだけ選んで、新たなアルバムに残しておいた。その中に赤十字病院の写真があった。原爆以前の1943年頃のようだ。確かに塔も写っていた。院長らしき写真のほか玄関前での集合写真も。この中に母が写っていれば、母20歳頃の写真だが、見定めることはできなかった。
卒業後の配属先は、佐賀県嬉野にあった海軍病院。8月9日11時2分長崎原爆。嬉野から長崎方面が赤く見えたとも聞く。入院していた患者は、全員病院外に移され箝口令。その日の夕方には、被爆者がトラック2台に乗せられてやってきたという。その後は、広島赤十字病院同様、懸命な医療活動が行われた。その日から戦場だ。母の生前、2度ほど看護内容をきいたことがある。「白血球を数えたり、湧くウジをとったり、茶渋を塗ったりした」と応えたが、詳細は聞かせてくれなかった。やはり辛い経験だったのだろう。そういう経験のため、母は「被爆者手帳」を持っていた。しかし病気することもなく元気そのもの。本人も含めて、誰しも100歳まで生きると思ってた。しかし、83歳の時、突然の病に倒れた。生きていれば、今年ちょうど100歳。もう少し詳細を聞いておけば良かったと悔やむ。
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