かつて近くに住んでいたこともある。なので何度か遊びに行ったことがあるが、その頃と比べると少し荒れた感じを受けた。旧佐賀藩鍋島家と戦国期の肥前国領主龍造寺家の菩提寺・佐賀の高伝寺だ。門入り口には、鍋島家の杏葉紋と龍造寺家の日足紋が並んでいた。受付で300円を支払い、「恵日山」の文字が掲げられた大門をくぐると、正面に大きな本堂。その本堂の大きな引き戸を開けてもらい本堂に入ると、右手に国内最大という大涅槃図の入った黒い箱があった。大きい。涅槃図の大きさは、縦15.2m 横6mというから当然だ。毎年4月に公開されるようだが、大きすぎて全体の展示ができないため中心部のみのようだ。かつて九州国立博物館で修復された折に全体が公開されているが、全体が見れるような建物が現在計画されているという。是非とも実現してほしい。本堂から廊下続きのところに蔵(御堂)があった。写真はだめだったが、特別に開けていただいた蔵には、鍋島・龍造寺両家の歴代位牌がずらりと並んでいた。
龍造寺隆信の墓
堂内を一通り見終えたあと、本堂裏の墓地へ。石畳の広い墓地で、これまた歴代の墓がずらり。その中で、私の関心を引いたのは龍造寺隆信の墓。龍造寺隆信は、沖田畷の戦い(島原/天正12年・1584)で有馬晴信・島津家久連合軍に討ち取られている。その討ち取った側の家久は、わが佐土原の城主だった人だ。この戦いの後、島津勢は筑前・筑後へと勢力を拡大し九州制覇を目指すが、天下統一を目指す秀吉とぶつかることになる。そしてまた家久も、秀吉の弟・秀長に降伏後急死する。病死との説がある一方、毒殺説もあるが真相は不明。毒殺説にしても、秀吉軍説もあれば島津軍説もある。