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現代のダ・ヴィンチ=テオ・ヤンセン










風を受けて動く造形作品を作りたい。ずっと以前からの想いだ。なのに形にしたのは立体凧ぐらい。それもずーっと以前のこと。空に浮かんだ立体凧と糸を引っ張る力の強さはよく覚えている。

ところで、宮崎県立美術館で開催中の「テオ・ヤンセン展(2024.7.20〜9.8)」だ。以前から一度目にしたいと思っていたので出かけた。稲刈り前の7月末だ。大学時代に物理学を専攻し、その後画家に転向したというテオ・ヤンセンは、1990年から風の力で動く「ストランドビースト」を作り始める。まるで、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でタイムマシンを造ったドクのようだ。
「ストランドビースト」と言われる作品群は、オランダ語で砂浜を意味する「ストランド」と生命体「ビースト」を合わせて名付けられた造形作品だ。風を動力源として砂浜を歩き回るのだが、風を受けて海上を走るヨットのようなものでなく、生き物のように歩き回るのだ。骨格は主に細いプラスチックチューブの集合体だ。作品の中には、水たまりを感知する能力を持つものさえある。感知した刺激を受けて動き出す動力源は、沢山のペットボトルに蓄えた圧縮空気だ。やはり、ヤンセンはただ者ではない。なので、現代のレオナルド・ダ・ヴィンチとも称される。
「ストランドビースト」の本来の姿は、風を動力源として砂浜を歩き回る姿だ。けっして美術館の中で静止している姿ではない。だが、それでも係員の手で大きな作品が数歩動いた時、観客からは「オッ!」という声が上がった。いつの日か、砂浜を歩き回る本来の姿を見てみたい。
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「原爆 いのちの塔」を見た






8月6日NHKスペシャルで「原爆 いのちの塔」を見た。
舞台は、原爆投下で壊滅的被害を受けた広島。その中で倒壊を免れた広島赤十字病院。そこに被爆者が殺到。骨折重傷を負った院長・竹内釼の指示のもと懸命の医療活動が続けられ、赤十字病院は「いのちの塔」と呼ばれた。

見終わって、母を思った。母は、広島赤十字病院の看護学校の卒業生だ。原爆投下時に、広島にいたなら、私はいなかったかもしれない。戦時中だったため、3年で卒業のはずが2年で卒業、広島を離れた。母の死後、看護学校時代の分厚いアルバム残された。卒業記念アルバムだ。表紙は、濃紺の地に赤い赤十字と白い看護帽子、そして「日本赤十字社 広島支部病院」の文字。そのまま残しておくのも一つの手ではあったが、古かったのでこれはと思うものだけ選んで、新たなアルバムに残しておいた。その中に赤十字病院の写真があった。原爆以前の1943年頃のようだ。確かに塔も写っていた。院長らしき写真のほか玄関前での集合写真も。この中に母が写っていれば、母20歳頃の写真だが、見定めることはできなかった。
卒業後の配属先は、佐賀県嬉野にあった海軍病院。8月9日11時2分長崎原爆。嬉野から長崎方面が赤く見えたとも聞く。入院していた患者は、全員病院外に移され箝口令。その日の夕方には、被爆者がトラック2台に乗せられてやってきたという。その後は、広島赤十字病院同様、懸命な医療活動が行われた。その日から戦場だ。母の生前、2度ほど看護内容をきいたことがある。「白血球を数えたり、湧くウジをとったり、茶渋を塗ったりした」と応えたが、詳細は聞かせてくれなかった。やはり辛い経験だったのだろう。そういう経験のため、母は「被爆者手帳」を持っていた。しかし病気することもなく元気そのもの。本人も含めて、誰しも100歳まで生きると思ってた。しかし、83歳の時、突然の病に倒れた。生きていれば、今年ちょうど100歳。もう少し詳細を聞いておけば良かったと悔やむ。
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