野のアザミ

日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。

シイタケのコマ打ち

2017-02-22 | 田んぼと畑

トントトッ、トントトッ。リズミカルな音でシイタケのコマ打ちを行った。毎年1本切り倒しているコナラを、昨年末は2本切った。太いところは直径20cmほどにもなっている。このまま1年たつと、大きくなり過ぎ、運ぶのに大変と思ったからだ。一昨年までは、どうにか替刃式剪定鋸で済ませていたが、手に負えなくなり、とうとう小さなチェンソーを買った。
コナラを植えたのは、約15年前。河川敷にある自分の所有地だ。河川敷に所有地があると言うと、たいてい不信顔をされる。実は、畑や山林だったところに、まっすぐな堤防が出来たため、結果として河川側に一部の畑や山林が取り残されたのだ。地区で大切にされている天神様も河川側にあったと言うが、堤防が出来る時に集落側に引いてきたと言う。昭和9年頃のことだそうだ。そういえば、「ドトリバ」とよぶ所があったが、意味も分からずその名を使っていた。今思えば、堤防を築くために土を取ったところ、即ち「土取り場」ということだろう。
話が脇道にそれたが、コナラを植える前は、女竹(メダケ)がびっしりはえていた。それを切り開き、20本ほどのコナラなどを植えた。それが、6、7年前からいい大きさに成長したのだ。切り倒した2本のコナラからとれた約1mのシイタケ原木は、12本ほど。その内の8本ほどに、ホームセンターから買ってきた400個の種コマを打ち込んだ。1本に50コマほどだ。それを、日向夏(みかん)の陰に“仮伏せ”してきた。2夏過ぎた秋頃には、この原木にもシイタケが顔を出すことだろう。
今年は、1月2月と晴天が続いた。そのため、原木から顔を出したシイタケが、そのまま干しシイタケになってしまったものもあったが、これから少しづつ雨が多くなる。大きなシイタケを楽しみたい。

堀尾貞治さんのこと

2017-02-17 | ギャラリー

現代美術作家・堀尾貞治さんの制作風景をみたのは確か3回。1回目はずっと以前。電球とくねくねした針金が記憶にある。その時だったと記憶するが、私の顔も素早くドローイングして、プレゼントしてくれた。
2回目は、宮日開館1階ロビーでのパフォーマンス。これもずっと以前。印刷前の長い新聞ロール紙だったと思うが、それが床に広げられ、その上に宮崎の現代美術作家・藤野忠利さん(現代っ子センター主宰)と2人で、墨をつけた石ころをコロコロ。あれよあれよと言う間に作品が出来上がった。
3回目は宮崎県高鍋町にある高鍋美術館多目的ホール。時は、2013年10月31日。主催は、現代っ子センター。この時のテーマは、「なんでもないこと」たのしい遊び場。
会場の多目的ホールは、講演などにも使われるたりもする小さな体育館ほどの広さだった。その床いっぱいにブルーシートが広げられ、その上に様々な形のキャンバス等がところ狭しと並べられていた。既に黄色やオレンジに塗られていたキャンバスも。最初は、壁に貼られた紙にコンテのよなもので壁のフロタージュ。そしてバックグランドミュージックの中、調合済み絵の具の缶を片手に、刷毛でキャンバスにたたきつけたり脚立の上からそのまま絵の具をたらしたり・・・。またキャンバスの端っこにチューブから出された絵の具をローラーで伸ばしたり、ボンドをたらしたり・・・。こうして沢山の作品が出来上がった。
堀尾貞治さんは戦後日本美術界をリードした美術集団のひとつ「具体美術」に参加された方だ。「具体美術」は1972年に解散しているが、その意思は今も氏などに受け継がれているのだろう。氏らの制作風景に出会うと、既成概念という殻がひとつひとつ剥がされていくのを感じる。地方では、現代美術作家の公開制作に恵まれることは少ないが、地域美術館も積極的に企画・紹介されるべきだと思う。
帰り際、うれしいことに2014年の干支「午」をいただいた。手のひらに乗るほどの馬の頭部の作品だ。



いただいた干支「午」

ジョウビタキ

2017-02-15 | 自然

家の回りで良く出会う鳥が何種類かいる。庭の植え込み付近をゴソゴソするのはシロハラ。お腹が白いからこの名前。落ち葉をあせり、ミミズ等補食しているようだ。以前、ビニールハウス内に入り込み逃げ場を失っているシロハラがいた。逃がすために、両手で捕まえた途端、尻尾の羽が全部抜けた。両手でそっと包んだのにである。尻尾が無くなりなんとも哀れな姿になったが、ビニールハウスから出してやると、ブロック塀の上をぴょんぴょんと飛び跳ねながら一目散だった。尻尾が抜けたのが、腑に落ちないのだが、多分トカゲの尻尾切りと同じではないかと思っている。要検証だ。
シロハラと同じくよく見かけるのはジョウビタキだ。スズメよりほんの少し小さいが、きれいな鳥だ。縄張りがあるらしく、私が歩けば距離をおいて付いて来る。枝から枝へ、あるいはブロック塀や棒の先端など、とまれるようなところを見つけながらだ。今朝も、ジャガイモの植え付け準備をしていたら、モズといっしょにやって来た。モズは警戒心が強いが、ジョウビタキはそうでもない。ほんのすぐ近くまで来て、掘り起こされた畑のミミズなどを狙う。良く見かける鳥だが、オスとメスはずいぶんと違う。写真のジョウビタキはオスだ。オスは頭は白く目の回りが黒い。そして、全体的にはっきりしたコントラストだ。しかし、メスは頭がうすい褐色で全体的に淡い感じだ。ウグイスに近い感じもする。
ところで、このジョウビタキは年中いるかと思っていたが、冬鳥として日本にやって来るそうだ。習性は縄張り意識が強く、鏡に写った自分の姿にも攻撃をしかける。私の車のバックミラーでもそういうことがあった。ギャラリーにも良くやってくるので、ちょっと気にかけておきたい。

ミヤマガラスの楽譜

2017-02-11 | 自然

昨日今日と、西風が強い。全国的には大雪のニュースだ。昨日は宮崎市でも雪が降ったとニュースになったとか。でも私はニュースも雪も見なかった。宮崎平野は九州山地にブロックされているため、雪が降ることはめったにない。
今朝、ひょっとすると九州山地の山々は真っ白かと思い、強い風の中、裏庭に出て見たが、部分的に白いだけ。九州各地の雪のニュースが舞い込んでくるのに、宮崎平野は晴れ真っ盛りだ。
そういうことで、1月から2月にかけての宮崎はスポーツ関連の春季キャンプが花盛りとなる。それと合わせるようにミヤマガラスの集団も見ていたのだが、今年は少し違うと少し前に書いた。鳥インフルエンザの関連を心配していた。しかし、書いた数日後、少し遅れて集団のミヤマガラスを見るようになった。写真のごとくだ。電線と、それにとまるミヤマガラスは、まるで楽譜のようだ。電線にとまるカラスを音符に見立てて演奏したら、毎日違う歌が出来ることになる。誰か試みてくれる物好きはいないものか・・・。



佐土原のお雛様展 & 佐土原人形伝承会作品展

2017-02-08 | ギャラリー

家の回りの梅が咲き始めた。一番最初に咲き始めたのは裏庭の小梅だった。そして遅れ気味だった大梅の木。門柱脇の大梅は、昨年ばっさり切ったため今年はほんの少し。昨年は、いい枝振りで大きな実を付けていたのだが、収穫の際、脚立から幹に足をかけた途端に幹が折れ、私は背中から落下。折れた真下がツツジの植え込みだったため怪我は免れたが、梅の木は無惨な姿になった。原因は、切り口から腐り、幹の中まで達していたためだった。
話がそれたが、ひな壇飾りには松竹梅がよく似合う。今年、おひな様展につくった段飾りの松は、剪定時に残しておいた庭の松。竹は河川敷の畑に生える真竹、梅は裏庭の小梅から調達した。
佐土原はかつての城下町。戦国期には、今の宮崎県の中心を成し、江戸期も佐土原島津藩の中心として栄え、明治・大正・昭和前期までは商業都市として栄えた。その明治・大正期には佐土原人形も全盛期だった。ある家に女の子が生まれると、親戚などから“ひな”と呼ばれる様々な人形が贈られ、内裏びなを中心にひな壇を飾ったと言う。10年近く前、残っていた「ひな壇飾り」の写真をみせて頂いたことがある。座敷に俵を並べ、その上に戸板。そして、庭から松竹梅やセンリョウ・マンリョウなどめでたい木々を掘り起こしてひな山・ひな壇がつくられ、その回りには贈られた反物で飾られていた。親戚も地域もみんなで女の子の成長を祝ったのだ。
今年の「佐土原のお雛様展」と「佐土原人形伝承会作品展」は、それらを念頭に置きながら展示した。町づくりへと発展・展開することを願いながら・・・・。

佐土原のお雛様展/同時開催:佐土原人形伝承会作品展

佐土原のお雛様展






佐土原人形伝承会作品展



島津啓次郎墓石

2017-02-06 | 郷土史

それは眼下に市街地、錦江湾を隔てて桜島を大きく望む台地の上にあった。西南戦争で戦死した西郷隆盛をはじめ2023名が眠るという墓地の一角だ。台地の上の鳥居をくぐると正面に西郷隆盛のどっしりとした墓碑が見える。本当にどっしりしている。それを囲むように、西郷軍の幹部だった桐野利秋、篠原国幹、村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武などの墓石が並んでいる。どれも大きく、ぎっしりと並んだ墓石からは、西郷軍の無念さが伝わるほどの威圧感を覚える。
目指したのは島津啓次郎の墓碑。一度は訪ねてみたいと思っていた。1mほどの自然石の上に3m近くはあるかと思える石柱に「島津啓次郎之墓」と刻まれている。他の墓石と場所も形状も違うのは、佐土原藩主の三男だったせいか。こちらには威圧感は無く、空に向けてすっくと立つっている姿は、未来を目指す青年のようでもある。脇の説明板には次のようにあった。

島津啓次郎
佐土原藩主島津忠寛の三男。明治9年、7年間の米国留学を終え帰国早々、佐土原隊500名を率いて従軍。自由民権を唱えた。従者の三島貢之(38才)、中村道晴(26才)、有村武英(20才)とともに明治10年9月24日城山で戦死。21才。


関心をもっているのは、啓次郎がアメリカ留学で身につけたという「自由民主」だ。佐土原の地元では若くして散った俊才として語られることが多いが、「自由民主」の内容にまで踏み込んで語られることはまずない。そのことに分け入り語ることになれば、より普遍性を持つことになるのだろう。帰国後に、同士と共にした「自立舎」という学習会や、西南戦争直前に開校されたばかりだった私学校「晑文黌(きょうぶんこう)」の名に目指したものの一端を垣間見る思いがする。

南洲墓地のそばには、西郷を歌った勝海舟の歌碑もあった。
  ぬれぎぬを
干そうともせず
  子供らが
   なすがままに
果てし
    君かな



西郷隆盛墓石


勝海舟歌碑

ハクセキレイ、シラサギ、タゲリ

2017-02-04 | 田んぼと畑

晴れの日が続き、この日も快晴。あちこちの田んぼにトラクタが見える。田起こしだ。トラクタのダダダダッという音を聞きつけて一番早くやって来るのは、ハクセキレイ。尻尾を上下させることから俗称イシタタキ。数十羽が群れでやって来て田んぼを賑やかに歩き回る。シラサギなどに比べると格段に小さい鳥だから見えにくいかもしれない。トラクタでかき出された小さなミミズが大好物のようだ。喜びの声がチュチュチュッとあちこちで聞こえる。 
次にやってくるのはシラサギ類。コサギ、チュウサギ、オオサギ、アオサギなど。シラサギが一番きれいなのは舞い降りる時。翼を広げて舞い降りる姿は「シラサギの舞い」と名付けてもいいくらい。シラサギを間近で観察していると、“祖先は恐竜”と思うことが多い。アマサギに最も強く感じる。秋の耕運では、バッタ類がどんどん飛び立つ。それを群れで追いかける姿はまるで恐竜。映画「ジュラシック・パーク」の1シーンを思わせる。シラサギ類の性格は恐竜的なものから慎重派まで様々。間近で観察できるのがトラクタ作業だ。だが、見とれ過ぎると耕運あとがグニャリと曲がり要注意だ。
最も美しいのは、タゲリだろうか。こちらは警戒心が強い。ツツツッと歩いて立ち止まり、またツツツッと歩く。頭に黒い冠羽があり、羽は見る角度で緑に見えたり黒に見えたりする。不思議な色だ。飛び立つと“ふわり、ふわり”と優雅に飛ぶ。鳴き声は鳥とは思えず、姿が見えなければ猫かと間違う。子猫のようにミューと鳴く。トラクタに近づくことは少ないが、この日はすぐ近くまで来てくれた。


やって来る時はグライダーのダイサギ



冠羽が特徴のタゲリ

ミヤマガラス

2017-02-01 | 自然

住んでいる集落と西隣り集落との距離は約1kmほど。田んぼが続く。その真ん中をまっすぐの市道と何本もの電柱。例年なら、今頃の時期は写真のような光景になるが、今年は少し違う。電線にとまっているのはミヤマガラスだ。この光景を見ないのだ。この写真は2008年2月3日のもの。
昨年から今年にかけて鳥インフルエンザが全国各地で発生した。宮崎県内でも12月、1月と立て続けに発生した。その影響でなければと願うばかりだ。
ミヤマガラスは、ハシブトやハシボソより少し小さい。いつもいる分けではなく、越冬のため飛来する。冬場は田んぼに群れをなしてエサとなる昆虫や種をついばんでいる。田んぼ一面、群れで真っ黒のこともある。また電線にずらりということもある。その中に小さなコクマルガラスがまじることもある。
ミヤマガラスは、電線下を通る時に白い糞には気をつけなければならないが、ハシブトなどのように悪さはしない。いつだったか、畔に置いていた弁当を持っていかれたことがあった。