I Love Nature

自然の中で見つけたステキなモノ

長崎街道歩き2  旧本田家住宅

2010年06月12日 | 長崎街道
(街道沿いにある旧本田家の案内標示)
 
次に向かったのは旧本田家住宅。以前から国道沿いに出ている看板を見て、一体どんなお家なんだろう?と気になってはいたのですが、今まで一度も行ったことはありませんでした。国道に看板を出すくらいだから、さぞかし立派なお屋敷なんだろうと勝手に想像を膨らませていたら、なんと、そこには私の想像とは全くかけ離れた住宅が残されていたのです
 
 
ここが旧本田家住宅への入り口。辺りを見回すと、たくさんの緑が生い茂っていて、とても立派な住宅があるとは思えない雰囲気です これまで持っていたイメージとの違いに若干戸惑いつつも、住宅へ続く小道を一歩一歩進んでいくと…

 
なんと!まるで日本昔話にでも出てきそうな藁葺き屋根のお家が現れたではありませんか  実はこの旧本田家住宅は、約250年くらい前に建てられた農家のお家なのだそうで(詳細は不明とのこと)、昭和46年に国の重要文化財に指定され、今もほぼ昔のままその姿が残されているのです。

 
外観もさることながら、住宅の中に入ると(勝手に入れます)まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような感覚を覚えます。まだ電化製品など皆無であった時代の日本に思いを馳せながら、住宅内部をじっくりと見学させていただきました。
 
 
こちらは梁に取り付けられた竹組の収納。
藁を収納することで断熱の効果もあったかも知れませんね
 
 
こちらは昔ながらの梁。釘を使わずうまい具合に組まれています。
 
そしてこちらは台所。
毎回火をおこすのも大変だっただろうな~
 
 私達の生活とはまるで違う250年前の生活。たった250年で人々の生活はこんなにも大きく様変わりしてしまったのですね。特にこの半世紀のうちに科学技術がみるみるうちに進歩し、機械がご飯を炊いたり、お風呂を沸かしたりしてくれるのが当たり前になってしまった今、私達は自分の手で生活する術をどんどん失いつつあるような気がします。もし私が250年前の日本にタイムスリップして、その時代の人たちと生活を共にすることになったら、「こんなこともできないの?」って笑われちゃうだろうな 
 
文明の利器に頼りつつも、自分でできることは自分でやる。
昔の人に笑われないためにも、そんな生活を送っていきたいと思うkero-keroなのでした。

街道歩きはまだまだ続きます 


長崎街道歩き1 井樋之尾~古賀の藤棚

2010年06月04日 | 長崎街道
(喜々津カントリークラブ周辺で拾った大きな松ぼっくり)
 
5月3日、メタボ気味の旦那さんのダイエットを兼ねて、二人で長崎街道を歩いてきました 以前からずっと気になっていた長崎街道。一度長崎から小倉まで歩いてみたいなぁと思っていたのですが、一度に歩くのは体力的にも時間的にも無理。ならばちょこっとずつ小分けにして歩いてみよう!ということで、今回は古賀から貝津辺りまでの範囲を歩いてみました。例のごとく二人分のおにぎりを握って、11時頃多良見町にある自宅を出発!まずは囲の交差点を井樋之尾(いびのお)方面へと向かいます。
 
 
長崎街道を目指し、喜々津カントリークラブの横を通って、どんどん山の方へ登っていきます。街道はどこだ~?
 
 
と、井樋之尾の御境石(写真左)なるものを発見 どうやらこの通りが長崎街道のようです。傍らに設置されていた案内板によると、この見境石について以下のように書かれていました。
 
文化五年(1808)のイギリス船フェートン号事件以降、長崎港警固の必要から、安政六年(1859)幕府の命により大村領東泊(大浦村)を天領に繰り入れ、代地として古賀村を大村領とした。この見境石は、このとき長崎往還道の佐賀領喜々津村と大村領古賀村の領境に立てられたことが文献に記されている。
 
(平成11年7月 諫早市教育委員会)
 
 
 
なるほど。ここが佐賀領の大村領と境目だったのかぁ。ちなみにフェートン号事件とは、当時鎖国体制だった日本で唯一海外に開かれていた長崎港にイギリスの軍艦が侵入したという事件。オランダの国旗を掲げ、国籍を偽って侵入し、人質をとって食料や飲料水を要求したらしい。要求に応じなければ港内の船を焼き払うと脅され、兵力を持たなかった長崎奉行所はイギリスの要求に応じたのだとか。当時海外との唯一の交流拠点だった長崎は、同時に外国の脅威にもさらされていたのですね
 
 
さ、ここからは古賀の藤棚を目指して、さらに東長崎方面へと歩きます。お天気もいいし、気持ちいいなぁ~
 
 
長崎街道の案内標示を発見 長崎街道にはこのような標示が所々に立てられているので、道を外れることはありません。ま、時々見失うこともありますケドね
 
 
標示通りにひたすら歩いていると、高速道路の多良見インターを少し過ぎたところに次の目的地だった古賀の藤棚を発見

 
案内板にはこう書いてありました。
 
古賀の藤棚
 
長崎から四里七町(16.3キロ)、諫早から三里十八町(13.6キロ)の距離で、郷土人形として有名な古賀人形の小川家は中里町のこの地にあり、家の前には大きな藤棚がある。昔は、長崎街道を通る諸大名や旅人たちの休憩所となった茶屋である。
 
ふむふむ。この家は古賀人形の名家で(どうりでステキなお家!)、茶屋として旅人達の休憩所になっていた場所でもあるのかぁ。当時は車や電車なんてないから、旅人にとって自分の足だけが唯一の交通手段であったはず。長い長い旅の途中で、美しい藤棚を眺めながらほっと一息できるこの場所で、どんなに多くの旅人達が疲れを癒したことでしょうね

 
周囲を散策していると、山際に小さな石段を発見 何があるのか上ってみると、そこには古そうな木製の鳥居があり、その鳥居をくぐるとちょっとした庭園のようなスペースが広がっていました。きっと地元の人が古くから守ってきた神社なのでしょうね。名前を探してみましたが、見つけることはできませんでした。ちょうど座れる場所があったので、ここでこれからどこへ向かうか検討したところ(なんせ行き当たりばったりウォーキングだったもので)、来た道を引き返して久山方面へ行き、そのまま西諫早にある私の実家まで歩こうということになりました。この後まるで200年前にタイムスリップしたような風景に遭遇することになるのですが・・・。
 
街道歩きはまだまだ続きまーす