
父の特別な数え方
父はとても情の深い人でした。
手のひらほどの田んぼを耕す貧しい農家でしたが、父は私たち4人兄妹の米びつをいつもいっぱいに満たしてくれました。
父は、家族の人数によって米を送る量も時期もすべて変えていました。一番上のお兄さんの家は家族が多いので2ヶ月に1回ずつ、2番目のお姉さんのところには3ヶ月に1回ずつ、そして私の家には4ヶ月に一回ずつ米を送ってくれ、一人暮らしの末っ子のところには1ヶ月に2升ずつ送ってくれました。私たちは、米がなくなる頃になれば間違いなく父の米が届くことにひどく驚きました。父は文字を書くことも読むこともできないからでした。米を送る度、書いておくこともできないはずなのに、米がなくなる頃をどうしてわかって送るのかとても不思議なことでした、
思春期の頃は、父が字を書けないと言うことが恥ずかしくて嫌でした。誰かに知られたら恥ずかしい思いをしなければならないと、父が何かを読んでくれと言うと知らない振りをしたことも多々ありました。ですが、大人になってそれが恥ずかしいことではないということがわかりました。
特に母が病気で倒れて実家に行った日、私たち兄妹は父がどんなに立派な人なのかを、胸深く知ることになりました。
寝室の引き出しから偶然に見つけた父の手帳がその事実を教えてくれたのです。
上のお兄さんは1番、2番目のお姉さん2番、私は3番、、、
父は、そうやって名前の代わりに数字で子供たちを区別して米を送った月をまめに書いてきたのでした。正にこれが文字を書けない父の特別な記録法であり、愛し方だったのでした。
父のくねくねした数字の前で、私は一時胸に抱いていた申し訳ない思いを恥ずかしく思い涙を流しました。そして父を力いっぱい抱きしめてごめんなさいと言いました。
「お父さん、本当にごめんなさい。お父さん、、、」
「よし、、、よし、、、」
理由を聞かなくてもすべてわかっているというように、父は何も聞かないで、私を背中を叩いてなぐさめてくれました。
父は母を送って3ヶ月後に亡くなりました。もう父は写真の中で笑っているだけです。
「う、、お父さん。」
父が恋しくてしかたのない日は、今でも白い米を研ぎながら父を思い浮かべます。