「もしもし、・・・もしもし。」 「・・・・・」 「もしもし。」 「もしもし。き、聞こえるかい?」 「よく聞こえるよ。どうしたの?こんな時間に。」
「明日来てもらえるかなあ。年の瀬だからいろいろ用事あるから、無理だよね・・・。」 「どうしたの、お父さんがどうかした?」 「お勝手の電気が切れたので代えて欲しいんだけど。それと2階のテレビが昨日の地震で結構揺れたので、台を代えて欲しいだけど。」 「そんなことなら明日の朝電話してくれたっていいじゃないか。明日は行くつもりでいたから。」 「年末だから忙しいから、無理して来なくていいよ。」 「そんなことないよ。それにそんな遠慮するなら何で、電話してきたんだよ。」 「・・・・。ひとりじゃ何も出来なくて。お父さんのこと何もやってあげられなくて。」 「分かってるよ。だから明日行くって言ってるじゃないか。だけど、急にどうしたの?」 「すまないね。何だか昨日からから背中、腰がびりびり痛くて全然動けないんだよ。昨夜はお父さんの世話で30分、1時間おきに起きて、殆ど一睡もしていない。疲れちゃって。だから、お父さんに食事も作って上げられない。・・・・。」 「じゃ、自分でも何も食べてないの?」 「・・・・。」 「必ず行くから、今晩は休みなよ。」
夜半の母からの突然の電話。そっけなく対応してしてしまった。電話を切ってから、両親の様子が心配で、気が気でなくなった。翌日は我が家の用事をしてから、昼過ぎにでも行こうかと思っていたのだが、ゆっくりしていられなくなったので、夜半から年賀状作りや諸々の用事を始めた。布団に横になったのは4時半。新聞配達のバイクが走り出していた。そして、翌朝9時に家を出て実家に向った。
母の背中が更に曲がって、一層小さくなっているように見えた。母は寝不足と疲労で立ち続けることが出来なくなっていた。そして、父は寝たきり状態になっていた。あの気丈な父が上体を起こすことすらも出来なくなっている。下の世話、水・食事、洗濯・・・。背が90度曲がって歩くのがやっとの母には、とても手に負えない状態。家の中全体に悲しい空気が澱んでいる。二日前に兄が来ているが、そんな状態になっているとは聞いていない。父の容態が急激に悪化している。母を休めて、父の軽い食事を作り食べさせてあげたり、し尿の汚れ物を洗濯したり、部屋を整理した。父を説得して、母に負担をかけるし尿ビンは止めてもらい、紙おむつにしてもらう。父は紙おむつを嫌がる。寝たまま布団の中で小便はできない。人間の威厳を蔑ろにする問題だと言う。しかし、「お母さんが動けなくなっているんだよ。少し楽にしてあげようよ。」 と言うと、父は悲しそうな表情で天井を見つめていた。「とうとうバアサンも動けなくなったのかあ・・・・。 じゃあ、そいつ試してみるか。」
夕方、アメ横で買った蟹や蛸を持って兄が来た。父が蟹を食べたい、それと正月は蛸だ、買ってきてくれと言ったらしい。父が自ら食べ物で正月を飾ろうとするのは珍しい。今のアメ横なんかろくなもの売っていないと言っていたはずの父が、良き昔を思い出したのか、アメ横で買って来いと言ったそうで、兄はわざわざ行って来たのだ。しかし、父の容態はそんな正月気分どころではない。
寝たきりの父と殆ど動けない母が寝やすいように同じ部屋に寝床を配置し直した。少し状況が落ちついて来て、母、兄そして私が父の横たわる部屋に自然に集まった。母の状態のことや母がゆっくり休めるようにしたこと、家の中のこと、父の周囲に揃えてあげた物などを説明してあげると、寝たままの父はほっとしたように頷いた。
何十年ぶりだろう。家族4人が一つの部屋に揃った。父と母が兄と私を育ててくれた土地の同じ屋根の下に4人が揃った。あの頃と同じ家族の空気が流れる。懐かしく暖かい空気が流れる。あの頃に帰りたい、でも帰ることはできない、帰ってはいけない過去の優し過ぎる空間。
「おい、小便がしたい。しビンを出せ。」 「そのまましていいよ。不快だったら直ぐに取り替えるから。」 「そうか、してみるか・・・。するぞ。」 父が紙おむつへの排尿に初めて挑戦している。喉が無性に渇くらしくしきりに水を飲む、だから頻繁に排尿する。食事がだんだん喉を通らなくなっているので、体力がなくなり、自分で上体を起こすことができなくなっている。全身の骨が痛いらしく寝返りもできない。何も出来なくなってしまった自分に不甲斐なさを感じ、時には天井を見つめて焦燥としている。あまりボケていないので、話の内容はハッキリ、堂々と、そして時には毅然としている。 「明日は大晦日か?」 「違うよ、大晦日は今日だよ。」 「そうかあ。テレビも新聞も見れなくなったからなあ。じゃ、あと一日頑張るか。」 「(あと一日頑張る?何、それ?)」
介護ヘルパーは、年明け5日まで来れないらしい。それまで兄と2人で頑張らねばならない。慣れない動きなので結構体力と気を使う。私は寝不足。兄も寝不足らしい。今年は除夜の鐘は聞こえない。正月気分にもなれない。でも、父と母に育ててもらった家で、父と母の助けになれ、恩返しができる。
父の愛犬のメリーが擦り寄ってくる。よれよれの足取りで足に絡み付く。私の足に寄りかかり過ぎると老犬の足はもつれて、ひとりで転んだりする。それでも必死に立ち上がり擦り寄り直す。メリーは何かを感じているのだろうか。父と母の寝床を直してあげたように、メリーの寝床にも古毛布を沢山入れて、寒さを防げるようにダンボールで囲ってあげた。メリーは毛布に居場所を確保すると、前足を投げ出して頭を乗せ潤んだ目で私を見上げた。そして、感謝すように前足を上下させて握手を求めたので、思い切り前足を握りしめて頭を掻き毟るように撫ぜてあげた。「メリー、親父とどこまでも一緒に行ってあげてくれよ・・・。」
特別なお正月を迎えている。父も、母も、兄も特別な気持ちで新年を迎えている。メリーも・・・。家族の気持ちが一つになった気がした。
父は、お休みの日の夕方になると、幼子だった兄と私を自転車の前と後ろに乗せ、愛犬を引きつれ、よく江戸川の土手に連れて行ってくれた。
父といった江戸川が見たくて、寒風の日、メリーを連れて土手まで足を伸ばした。矢切の渡し場に沈む夕日。思い出がシルエットに・・・。