TransCanada Highwayを西に向う。カルガリーからBanffまでは130km、更に60km走るとLakeLuise。LakeLuiseからJasperまでは220km。
ゆったりとした週末の午後、思い立つとBanffへ向かった。 山間のSprings Hotelのデッキから
鳥の声に包ま れ、遠くBow Valleyを見下ろしながらアフタヌーンティー。季節ごとに異なる風景の中を散策し、時にはバンフの町中でお寿司を食べる。自然界のバランスが体にしみわたり、五感が蘇る。Banffはそんな至近にあって、かけがえのない場所だった。だから、このHighway Route-1をほぼ毎週のように行き来した。西に向かう と、徐々に迫り来るロッキー、その懐に入ってゆく連続風景の全てを、今も鮮明に思い起こす事ができる。
カルガリーからロッキーを目指し、70km地点のIntersectionを南に向うとKananaskis County。1988年カルガリーオリンピックのダウンヒル会場となったNakiskaスキー場がある。イタリアのトンバが活躍した冬季オリンピック。ダウンヒルコースの中程で観戦した。雪山を登って観戦する場所を陣取った。そんな上で観戦する人は殆どいない。真っ白な静寂の世界を、トンバの荒い息遣い、切り返しの雪面を切るエッジの音、ずっしりと着地する大地を打つ重みが大太鼓の連打のように山に響き渡った。手の届くような目の前を世界の一流選手が次から次と滑降した。日本のダウンヒル競技参加2人の内1人がM社スポーツ用品子会社の社員だったので、彼らの宿に日本食を差し入れたり、Banff Springs Hotelですき焼をご馳走した。彼は滑降で日本人として初めての上位に入った。
私の青春はスキーで明け暮れた。大学時代は、一応競技スキーの同好会にも属していた。カルガリーオリンピックの数年後、回転競技を観戦した同じスロープの急斜面で転倒した。競技風に頂上付近から一気に滑り降りていて、春先の午後日陰となってから発生するアイスバーンで飛ばされてしまった。そして、全身打撲で病院に運ばれた。遠くで見ていた人が助けに来てくれるのも大変な斜面に転がり込んで、しかも何本かの木に激突していたので、バラバラに散らばった。生きているのが奇跡だと言われた。同じ時刻、一台のヘリが近くの斜面で転倒した人を吊り上げていた。まだ、自分の体がどういう状態になっているのか分からず、雪に埋もれグッタリ横たわる虚ろな目が、その光景を捉え、自分も吊り上げられるのだと思った。翌日の新聞に、そのスキーで転倒した人が死亡したと書いてあった。自分は全身強打だけだったが、激突の瞬間が悪夢となり、痙攣状態で突然目覚める夜が続いた。ダウンヒルはもう怖くてできないと思った。その翌年にCanadian Ski Alliance指導員の講習を受講し試験を受けて、CSA指導員の認定を受けた。SAJと提携している協会なので、日本でもスキー指導できる。それを人生の記念にして完全にダウンヒルスキーは辞めた。その後、スキーはクロスカントリーひとすじになった。
Nakisika VillageはValleyを見下ろす小高い丘の上にあって、風光明媚で警備がしやすいということで、2002年G8サミットが開催された。VillageからはKananakis Golf Courseを眺め下ろし、裏にそびえるMt.Allan(2,816meter)の山麓や渓流に沿ってクロスカントリー・ハイキングトレイルが縦横に整備されている。都会的な風景、雑音から完全に遮断されたVillageなので、夏冬問わずに家族で泊まりに行った。Villageから更に南に向うとKananakis Lakesがある。荒々しい湖畔のキャンプ場で何度となく夜を過ごした。寒風と澄み切った夜空に満点の星。
Village下の渓流は、ハイキング・クロスカントリー時の我が家のピクニックスポット。家から手軽にいける場所なので、友人がカルガリーに来てくれた時のBBQスポットでもある。誰も居ない早春のピクニックテーブル、Mt.Allanから吹き降ろす冷たい風にひとり吹かれていると、ロッキー山麓の町、カルガリーで暮した思い出の日々が蘇った。