盆休みも終わり、今日からまたソフトバレーを楽しむ。
キリスト者の道は 神と共に喜んで 奉仕することである。 主イエスは我らに 模範を示して 弟子の足を 御洗いになった。
「我が来るは 仕えられるためではなく 仕えるためだ」と 主は言われた。 主は永遠の 天の御座をすてて 地のどん底にまで お下りになり 実に十字架の 死にまで従われた。
我らの在り方 生き方は明瞭 如何なる職業の人も 真の人生の目標は 神と人への奉仕 受くるより与うるは 幸いなり、奉仕せよ 幸いはここにある。 これがキリスト者の まことの道だ。
中山吾一著 「一日一詩 永遠の旅」より
真似と模倣 聖者と共にいて 真似していると 聖者になれると 思ってはならない 習うとは 模倣することではない。
主イエスと同じ 服装をして ガリラヤ湖畔を 歩いても キリストのよう にはなれない。
信ずるとは 主の神格の中へ 我が人格を 投入することだ。 自我をなくして 彼をして 我がうちに 生かしめることだ。 信仰の極意 はこれだ。
「最早われ 生くるにあらず キリスト我がうちに 生きた給う」 嗚呼!この境地に 達したい。
中山吾一著 「一日一詩 永遠の旅」より
心の置きどころ。 智に働けば 角が立つ。 情に掉させば 流される。 意地を通せば 窮屈だ。 とかく人の世は 住みにくい。
我が心を どこにおくか。 下をむいて ためらう心 横を見る心 自主を失う。 内を見ると 罪だらけの 自分。
心を上に向け 神を見上げて キリストの 命令に絶対 服従して 前進したい。
中山吾一著 「一日一詩 永遠の旅」より
自然は 思い煩わない。 動物も また 思い煩わぬ。 犬も猫も 牛も馬も 心配そうな 顔をしていない。
人はなぜ 思い煩うか 時を思うからだ 過去、現在、未来 過去はどうにも ならぬものだ 未来もどうにも ならぬのだ。
自然のように 思い煩わず 現在を立派に 最善に 生きよう。 明日の事は 明日に委せて。
中山吾一著 「一日一詩 永遠の旅」より
{ヨハネ一一・二五}イエスは言われた「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
世の中に地位財産を誇る人間は少なくないが、この言葉の主のように、"私はよみがえりです、いのちです" と云う事を大ぴらに云い得る人が外にあるだろうか。 馬鹿か狂人なら別な事、常識ある人間で、こうした大胆な言葉をはき得る人はないであろう。 あの不法極まる死を進んで甘んじて受け、信じて最後の苦杯を飲み通されたキリストなればこそ、この驚くべき言葉が平然として口にされ得るのだ。 死んでも命があるようにとは、万人が心に願っいる処である。 しかしキリストに従うものには、死も最後ではない。 私たちにはこの世から彼世への移転でしかない。またこの永遠に活き給う神と共なることは死を亡ぼすこととなる。誠に驚くべきことである。 久布白落実著「日々の食物」より
霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。ガラテヤの信徒への手紙五章一六節
信仰は自分の決意や意志によって歩む生活ではありません。霊に導かれる生活であります。 「この道を行こう」と定めて前途を切り開いていくのではありません。 霊が導いてくださるところに道が出来るのです。神の民イスラエルが神に導かれつつ道なき荒野に道を見出していったように。
導かれて歩いた跡が神の約束の地につながる道となったのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。ペテロの手紙一、三章一八節
信仰生活は二つの面をもっています。肉においては苦しむのです。 肉において楽をしながら、信仰生活をまっとうすることはできません。 肉において苦しみながら、同時に霊において(神に)生かされるのです。 肉において苦しむことと、霊において生かされることは結びついていて、切り離すことはできません。 キリストの死と復活がそのことを示しています。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より