
Hiroshi B.Matsuura
*【賢者の声】「福沢諭吉の征韓論を厳しく批判した吉岡弘毅」
…吉岡弘毅(1847- 1932)は日本の外交官・キリスト者(長老派教会牧師)。
外務権少丞として明治初期の日朝交渉に当たり、征韓論に反対した。
1875年に、福沢諭吉は、朝鮮は「小野蛮国」で、「仮に我属国と為るも之を悦ぶに足らず」とし、『時事小言』の翌年の「朝鮮の交際を論ず」で、「朝鮮国 … 未開ならば之を誘うて之を導く可し、彼の人民果して頑陋ならば … 武力を用ひても其進歩を助けん」と述べています。
つまり、「文明」に誘導という名目で、武力による侵略が合理化されている。
福沢は自由民権派から「法螺を福沢、嘘を諭吉」と侮られ、元外務省勤務の吉岡弘毅は、福沢のアジア侵略路線は「我日本帝國ヲシテ強盗國二変ゼシメント謀ル」道のりであり、「不可救ノ災禍ヲ将来二遺サン事必セリ」ときびしく批判した。
◆〈賢者〉に意見を求めるべし
征韓論者たちが「朝鮮の対応は無礼だから武力に訴えてでも開国させよ」としたことをこう論難した。
「朝鮮政府は少しも無礼ではない。無礼なのはむしろ日本の方だ。朝鮮人は無礼なのではなく、日本人を恐れているのだ。朝鮮人には、かつて秀吉に国土を蹂躙された記憶が代々伝わっている。対馬と釜山に限られている外交の窓口をやみくもに広げ、朝鮮半島にまた日本人が入って来れば、日本人は何をしでかすかわからないと恐れているのだ。だからもこれまでの日朝の歴史を振り返り、相手の立場に立って誠意をもって対応すれば、必ず朝鮮人は日本人に心を開いてくれる。反対に武力に訴えたりすれば、それは秀吉がやったことをまた繰り返すことになり、百年消えぬ恨みを残すだけで、われわれは何も得ることがないだろう」
福沢と吉岡のどちらの意見が正しかったかは、歴史が教えるところだ。
秀吉による侵攻から3世紀経っても、朝鮮の人々はその残虐さを語り継ぎ、「日本人は何をしでかすかわからない恐ろしい連中」との恐怖が語り継がれていたのだ。
耳塚とは 朝鮮人からそぎ落とした耳や鼻を供養。
(画像は耳塚)
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/319
福沢諭吉を万札の肖像にするくらい為政者に見識がないから、現代日本は経済から教育までボロボロになってしまったのでしょう。
戦前の「修身」は、天皇制を支えるためのスタンプラリーです ... 道徳は「何が正しいか」を考えることですから ...
例えば、杉原千畝は、① 人命を救うということと、② 公務員の義務を果たすこととという2つの正義の間で葛藤したわけです。
戦国時代の当時も「朝鮮に道案内をさせ明を討つ」という秀吉の誇大妄想は武将たちから意味不明と思われていた
... 現在の時点から振り返ると、この計算高い商売人は、① 強大な武力を持つ大名を国内に留め置けば謀反の恐れがあり、② 海外に派兵させ、限りある国内の土地にかわり海外領土を恩賞として与えれば自分の身は安泰と一石二鳥を考えていたのかもしれない。
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