あらぐさ(雑草)のこころ

(備忘録)真実は見えないところにある

2023/09/26

2023-09-26 11:35:55 | 日記
Hiroshi B.Matsuura

*【#歴史】「刀伊の入寇について」

... 高校生の頃、『枕草子』に出て来る中宮定子に興味を持ち、その兄の伊周や弟の隆家のことを調べ、この刀伊の来襲にも関心があった。

ただこの「刀伊」(とい)という呼称には違和感があった。女真族ならなぜ女真と呼ばないのかということである。

ここで思い至るのが、この「とい」という呼び名は、日本に流れ着いた高麗人の呼称だということだ。

◆ 中華思想の周辺への感染

周知のように、中国人はその拠点を「中華」と呼び、周辺民族を東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼び、歴代皇帝は周辺民族に「卑弥呼」(本来は「姫御子」の意)などとおかしな名前をつけて喜んでいた。

このナルシシズムをくすぐる中華思想は、たちまちベトナムや朝鮮にも感染し、ベトナム人は「京人」と自称し、カンボジア人やラオス人を蔑視した。また朝鮮の人々も同様に小中華思想を徹底して行った。

だから、沿海州に住み周辺で略奪を続けた女真族を、高麗人は恐らく「東夷」(東の方の野蛮人)と呼び、その朝鮮語の「되」という音韻に、平安朝の貴族たちが「刀伊」と名付けたのである。

漢字は当て字であり、日本史では音韻を追って行くと、意外な真実に近づく。

*【歴史】「李氏朝鮮の第一級の知識人を正使とした朝鮮通信使の日本滞在記には共通の観察」

① 日本の主要街道は整備され、築城術に優れている。
② 日本の女性たちは美しく着飾っている。
③ 日本食はわれわれには薄味過ぎるが、日本酒は美味で樽ごと持って帰りたい。
④ 日本の儒学の水準はわが国とかわらないが、漢詩はひどく下手だ。

朝鮮通信使の記録は、数点平凡社の東洋文庫に翻訳がある。通信使の宿舎には庶民が漢詩の添削を求めて殺到した ... その出来ばえには関心しなかったが、庶民が漢字を知っていることには驚いている。

④ の「漢詩が下手」というのは、通信使が江戸時代の文化に不案内であることに拠る誤解である ... 日本の学者や文人たちも、長崎経由で漢詩を作る際の押韻辞典を入手することはできた。しかし、江戸の日本では「詩吟」が流行し、最後の漢字を厳密に中国語の音韻で伸ばすと、日本語としては収まりが悪い。そこで江戸期の漢詩は、脚韻の厳密さに拘らなくなった。それを知らないので漢籍に馴染んだ通信使たちには、「日本人は脚韻を知らない」ように見えたのである。

定型詩に押韻があるのは、ヨーロッパも同じである ... 例えばボードレールやランボーなどの詩人は、リセと呼ばれる中等教育時代から、フランス語やラテン語のコンクールに参加し度々受賞した。その作詩の会場に唯一持ち込んでいいものがあった。それが「脚韻辞典」である。つまり、同じ音韻を含んだ単語がたくさん載っている辞典で、詩人たちは霊感を得て作詩したのではなく、そこから語を選んで作詩したのである。

中国や台湾からの留学生たちによると、奈良や平安時代に日本人が作った漢詩は、中国語として正確に理解出来るという ... 古代や中世の日本人は、中国語の統辞法と音韻を守って作詩していたのだ。しかし、江戸期になると日本の文化事情が変わって来た。朝鮮語は、中国語より日本語に近い。それゆえ、封建時代の朝鮮人は、ちょうど、われわれがレ点や返り点を振って意味だけを追っていたのと同様、吏読という特殊な記号を付して漢文を読み下していたという。

① 脚韻辞典(これはフランス語)とはこんな感じで、同じ音韻をもった単語、接頭語や接尾語が載っている。 ② そして、漢詩に五言絶句や七言律詩があるように、ヨーロッパの定形詩にも、詩の形式(ソネットなど)や押韻の仕方にきまりごとがあった。例えば、最後が ABAB なら「交差韻」と言い、ABBA なら「抱擁韻」である。③ そして、この脚韻は単に作詩だけに用いられるのではなく、今日では発音がわからなくなった未知の言語や単語の音韻を復元するのにも役立ち言語学にも応用される。④ 例えば、詩形式がわかり、脚韻が「交差韻」なら、最後の単語は必ず ABAB で終わるので、最初の詩句と3番目の詩句の脚韻は必ず一致する。こうして未知の単語の音韻が復元できるのである。

時期によって違いますが、主に山陽道と東海道です。朝鮮通信使の役割は、将軍への慶賀は表向きで基本的にスパイ(情報収集)ですから、戦争になれば確実に戦場になる九州は見せません。李氏朝鮮は、「日本がまた秀吉のように侵攻してくるのではないか」と疑心暗鬼だったのです。つまり、清国と日本という強大な武力を持つ二大国の間でどうやって朝鮮が生き延びるかというサバイバル作戦です ... この作戦は、開明的で合理的思考の持ち主だった光海君の時代に始まりました。

*【#歴史】「刀伊の入寇について」

... 高校生の頃、『枕草子』に出て来る中宮定子に興味を持ち、その兄の伊周や弟の隆家のことを調べ、この刀伊の来襲にも関心があった。

ただこの「刀伊」(とい)という呼称には違和感があった。女真族ならなぜ女真と呼ばないのかということである。

ここで思い至るのが、この「とい」という呼び名は、日本に流れ着いた高麗人の呼称だということだ。

◆ 中華思想の周辺への感染

周知のように、中国人はその拠点を「中華」と呼び、周辺民族を東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼び、歴代皇帝は周辺民族に「卑弥呼」(本来は「姫御子」の意)などとおかしな名前をつけて喜んでいた。

このナルシシズムをくすぐる中華思想は、たちまちベトナムや朝鮮にも感染し、ベトナム人は「京人」と自称し、カンボジア人やラオス人を蔑視した。また朝鮮の人々も同様に小中華思想を徹底して行った。

だから、沿海州に住み周辺で略奪を続けた女真族を、高麗人は恐らく「東夷」(東の方の野蛮人)と呼び、その朝鮮語の「되」という音韻に、平安朝の貴族たちが「刀伊」と名付けたのである。

漢字は当て字であり、日本史では音韻を追って行くと、意外な真実に近づく。

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