油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

残暑に、ひと言。

2024-09-06 17:26:15 | 随筆
 九月六日。この日も暑い。

 残りの夏といったお天気なのだろうが、午
後二時あたりで、気温が摂氏三十五度を記録
しそうな勢いである。

 いま、二階の書斎にいて、この記事を書い
ている。

 首からひたいにかけて、たちまちのうちに
汗ばんでくる。

 早くおわそうと思うが、暑さのせいで頭が
ぼんやり。書き終えるまでに、どれほどの時
間がかかるか見当がつかない。

 パソコンのわきに、一冊の文庫本。
 「ベスト・エッセイ」
 著者は、今は亡き向田邦子さん。

 みなさん、よくご存じの直木賞作家。
 「渡る世間は鬼ばかり」
 テレビドラマで人気を博した。
 随筆や短編小説の名手でもある。

 わずかなりとも、向田さんの語り口を学べ
たらと思い、折に触れては読ませていただい
ている。

 しかし、書きものはやはり才能。
 何やかやと書き出して早や、十三年。
 ちょっぴり作文力がついたくらいでは、も
ののかずではないらしい。

 天才といえば、瀬戸内晴美さん。

 昨年だったか、逝去された寂聴さんのこと
だが、いま、彼女が書かれた本を読もうと一
所懸命である。

 ここまで書いて、急に喉の渇きをおぼえて
階下に降りた。
 グラス一杯の水を、ごくごくと飲みほした。

 エアコンのきいた一階のソファにごろりと
身を横たえてしまい、いいや、もう、今日の
ところは、などと不届きな気持ちになったが、
思い直して、足取りおもく、階段を上がって
来た。

 書き始めておよそ一時間。
 書斎の温度はいかほどだろう。

 少しは低くなったろうか。
 だが、さにあらず、パソコン前の椅子にす
わり、五分も経たないうちに頭がぼんやりし
てきた。

 (つまらない随筆は書きたくないな。できる
だけ中身の濃い、みなさんの興味をひくもの
がかけますように)

 いつだって、そう願い、ない知恵を絞りに
しぼっているが、何しろ浅学の身である。

 「水分補給を忘れずに」
 この猛暑の中、親しい友人のひとりの助言
がありがたかった。

 今朝も七時から草刈りに精出した。
 二週ほど前に、手鎌で、きれいに刈り取っ
た旧塾の駐車場あと。

 長梅雨が明けたと思ったら、今度は真夏の
お天気。

 今年はめずらしく、盆踊りが再開されると
聞き、運動公園近くにある、田畑の除草に力
を入れようと励んだ。
 
 しかし、天は我に味方せず。
 猛暑とゲリラ豪雨が入れ代わり立ち代わり
やってきたから、いったん草をきれいに刈っ
ても、二週間も経たないうちに、また元どお
りになる始末だった。
 
 県内では佐野市がこの夏最高気温を更新。
 四十度にせまった。

 以前は熊谷が注目され、そして舘林へ。
 北方の街へとつづいた。

 ついに佐野市が関東の雄になった。

 明日は義妹の十三回忌。
 還暦を迎えずして、逝去している。

 あれやこれやと家族と、K子の思い出話を
して、彼女の霊を慰めたいものだ。
 
 
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盆の踊りに……。

2024-08-16 16:55:26 | 随筆
 生まれつきにぎやかなことが好きなのだろう。
 私はもよりの公園で催される盆踊りに参加した。

 新型コロナがこのところ猛威をふるっていた
から、実に六年ぶりの開催である。

 踊り始めが、午後七時。
 およそ一時間前に会場に到着していた。

 開会にはまだ間がある。
 あちこちぶらぶらしながら、見知った顔にでく
わさないかと目線をさまよわす。

 空気はねっとりして、肌にまとわりついてくる
がそれほど気にならない。

 会場まで歩いて片道十五分かかった。
 病上がりだが、体調はいたって良く、しゃん
しゃん歩けた。

 (自在に歩けることがこんなに嬉しく、しあわ
せに感じるなんて……)

 何だって、神さまのおはからい。
 そう思うようになったのは、歳のせいで信仰心
があつくなったからではないだろう。

 何だっておのれの思うようにいくと思い、しゃ
にむに突進した頃がなつかしい。

 次第に空が暗くなり、黄昏となった。
 だが、ひとりとして、なじみの人にめぐりあわ
なかった。
 北の空、黒雲の動きばかりが気がかりになる。

 夕立の心配である。
 ときおり稲妻が走った。

 降るとなったらゲリラ豪雨。
 傘は持参したが、よこなぐりでは仕方ない。
 ずぶぬれ覚悟で来た。

 「第十三回鹿沼市A地区盆踊りの開催を宣言いた
します」

 やっとアナウンスがあった。
 しかし、すぐには踊りが始まらない。
 来賓連中の祝辞やらがつづいた。

 (早く始めればいいのに……、雨が……)
 心中、まことに穏やかならず。

 寄せ太鼓につづいて、本番となった。
 踊るは、和楽おどり。

 今までに二三度参加していたが、手と足のうごき
がなめらかとはいかない。
 どちらかに気をとられると、一方がお留守になっ
てしまう。

 笛や太鼓がそれぞれの音を、ボリュウムアップ
しだした。

 さいわいなことに、目の前にお手本になる方が
おられた。
 同じ組内で歳も近い。

 五分くらい体を動かしたところで、どこも痛かっ
たりだるかったりしない。

 「よしっ、これなら大丈夫」
 私は全力で踊りだした。

 一時間以上、ほとんど休みなしで踊ったろう。
 両足がふらついていた。

 かろうじて立っている。
 「せんせいっ」
 ふいに女の子の声がして、わたしの体を支えた。

 突然の出来事だった。
 わたしはわけがわからない。
 「ピースして、ピース」
 目の前に中学生くらいの女の子がふたり、こちら
を向いてスマホをかまえている。

 ちらっと首をまわし、その子が塾生だったことを
確かめた。
 今度は状況がはっきりした。
 
 彼女が入塾したのは小学一年生、今は早や、中三
になっていた。

 胸がジンとした。
 「なんや、写真撮るんんだね」
 「そう」

 「じゃあ素顔のままがいいね。ピースもひとつじゃ
なく、ふたつだ」
 私はかけっぱなしの老眼鏡をはずした。

 私の畑わきの小道が登下校に利用されている。
 野良仕事をしているのを見つけると、いま、わたし
を支えてくれている子が必ず、「先生」と手を振った。

 しばらく体調がすぐれず、畑が草のジャングルになっ
ているのが気がかりだったのだろう。

 写真を撮り終えてから、
 「先生、元気でね」
 彼女が耳もとでささやいた。

 「わかった。ありがとう。あなたもね」
 「はい」

 教師冥利につきる。
 (神さまありがとうございます)
 こころの中で言った。  
 
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涼をもとめて。  (2)

2024-07-24 08:04:29 | 随筆
 ここ連日、体温を超す気温がつづく。
 奈良や京都も盆地であったから、昔から
けっこう暑かった。
 手もとに一冊のアルバムがある。
 表紙は深緑色。
 らせん状の金属で、アルバムの何枚もの
分厚い紙が支えられている。
 左上にさくらの花をかたどったM小学校
の紀章があるから、きっと卒業式の際にい
ただいたものであろう。
 たたずんだままで、それをパラパラめく
りだすと、青っぽい封筒が一枚、はらりと
畳の上に落ちた。
 以前にも、その中身を観たおぼえがある
が、もうしばらく前のことで、何だったか
思い出せない。
 調べると、自分の履歴のごとき、幼児期
から少年期にかけての三枚の写真が入って
いた。
 そのうちの一枚を観て、あっと思った。
 それほど驚くにはあたらないのだが、何
しろ、およそ七十年以上も前に撮られたも
のである。
 幼子がふたり、砂利道でできた四つ角で、
カメラに向かい顔を向けている。
 女の子なら、きれいに撮ってもらおうと
品を作るのだろうが、双方とも男である。
 思い思いの感情やら考えが入り交じって
彼らの表情を形づくっていた。
 当時いくら暑くても、気温が三十二度く
らいだった。
 ひとりはじっとすわったまま。
 つい先ごろ、坊ちゃんふうに調髪された
らしく、広いおでこにじっとり汗がにじん
でいる。
 上半身は裸だ。
 ようやくへそを隠すようにはいた半ズボ
ンの裾から、白い下着がはみでている。
 ふたりともせっかく写真におさまるのに、
にこりともせず、ただただ、言われるまま、
前を向いてる風情だ。
 もうひとり黄ばんでしまったらしいちゃ
んちゃんこを着ている。
 シャッターが切られる瞬間に何か興味を
おぼえるものを見つけたのだろう。
 さっとわきを向いてしまった。
 その四つ角に、T商店があった。
 軒先の旗がひらひら、風に吹かれている。
 よく観ると「氷」と書かれていた。
 長椅子にすわった、大人の左足だけが写っ
ている。
 「すぐ済むからちょっとだけ、じっとして
るんやで」
 とでも言われたのだろうが、相手が幼子で
ある。
 そんな言葉は逆向きに働いてしまい、思わ
ず、どこかに遊びに行きたくなってしまった
のだろう。
 昭和の二十年代の末ごろに、撮られたもの
と思われる。
 当時、写真機をお持ちの方など少なかった。
 おそらく、うちの家主さん宅の大学生にお
なりのおぼっちゃんに撮っていただいたのだ
ろう。
 時代が大幅にすすんで、現代。
 令和の時代に入ったばかりの時期だった。
 「どっちが今のおれさまだと思う?」
 いつぞや、かみさんに訊ねた。
 「こっちでしょ?」
 かみさんの推理は当たらなかった。
 (おらはこっちの子だよ。……と思うんだけ
どなあ)
 他人を観るごとき眼で、おのれの幼い頃の
姿を観ている自分がいるのに気づいて、驚い
てしまう。
 自分だって、よく判らない。
 おそらくどなたに訊ねても、間違ってしま
われるに違いない。
 七十年の歳月の永さは、それほどに深くて
広い。 
 
 

  
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涼をもとめて。 (1)

2024-07-04 17:08:48 | 随筆
 わたしのふるさとは大和盆地。
 海なし県でいざ涼をもとめるとなると、「うぐいすの
滝」を観がてら、サワガニを採るのが子ども時代の楽し
みでした。

 遠くは三重県名張市の「赤目四十八滝」がありました
が、容易に訪ねられるところではありませんでした。

 「赤目に行って白目になるよ」
 歩き疲れるほどに遠い。

 そんな意味のことを、今は亡きおふくろが言いいいし
たことです。
 ちなみにオオサンショウウオが生息していることで有
名です。

 水泳場は木津川の土手に造られた駅まで電車で行きま
した。

 木津川はご存じの如く、淀川水系。
 近鉄京都線の新田辺駅から数分で当時、川の土手に造
られた簡素な駅に着きました。

 ベビーブーム世代で、夏休みともなるとたくさんの人
でにぎわいました。

 とにかく水がきれい。
 魚の種類も多く、夢中で網ですくったり、ヤスで突い
たりしたものです。

 水中めがねをはめ、もぐったまま、となりにいる人た
ちが歩いたり泳いだりしている様子を観察するのは興味
深いものでした。

 もっと上流に行きますと、どんどん石の大きさが変わっ
ていき、とうとう小山ほどにもなる大岩が出現したのに
は驚いたことです。

 jr笠置駅。
 奈良と亀山をむすぶ関西本線のひとつの駅が木津川沿
いにありました。
 キャンプ場として当時から知られています。

 奈良から北へ北へ。
 木津駅で京都線と関西線にわかれました。
 関西線で次が加茂、そして笠置へとつづきました。

 川幅がどんどん狭くなってきます。
 当時は蒸気機関車が走っていましたから煙がもくもく。
 窓を開けておくと、せき込むほどの勢いでした。

 初めて笠置駅を訪ねたのは、昭和34年夏、叔父夫妻の
新婚旅行をかねたキャンプにいっしょに連れて行っても
らったのですから、良き思い出です。

 叔父にしてみれば、初めての甥っ子でしたので、すい
ぶんと可愛がってもらったことです。

 大岩を縫うように水が流れていますから、よほどの水
泳の達人でなければ、大岩と大岩の間にできた深みには
まりこんでしまう。

 「助けて、助けて」
 おぼれる人の声を耳にするなり、大岩の上で肌を乾か
していた叔父が、一目散にかけだして川にとびこむあり
さまが今でも目に浮かびます。

 飯ごう炊飯はなんともめずらしく、
 「ぎょうさん、枯れ木を採って来てな。けいじはまめ
な子やな」
 ほめられた時はうれしいものでした。

 人命救助です。
 叔父さんがたくさんの人から褒められた時はわがこと
のように喜び、ちょっと誇りさえ感じました。

 南北朝の時代、その騒乱のさなかにご醍醐天皇さまが
お隠れになったことで有名な笠置山。
 空をあおぐと深緑が目に染みたことです。

 鈴鹿の山なみを越え、三重県津市の海浜までドライブ
しなきゃ、海を眺めることができませんでした。

 大阪湾は今はどうでしょう。

 小さいころは助松の海辺で水浴びを楽しんだことを憶
えていますが、あまりにむかし昔すぎて、ただ大きなタ
イヤのチュウブを浮き輪代わりに、両手でしっかりつか
んで放しませんでした。
 
 今もなお、助松海水浴場が存在しているようなら、う
れしいかぎりです。

 六十年もの月日が経ったのですから、その間の工業の
発達やら関西国際空港ができるやら、そんなことをのぞ
むほうがむりというものでしょう。

 機会があればもっとお話ししましょう。
 
 
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種吉版「おくのほそ道」

2024-06-30 03:12:20 | 随筆
 月日は百代の過客にして
        行きかふ年も又旅人也。
 舟の上に生涯をうかべ
        馬の口とらえて
 老いをむかふるものは
        日々旅にして
           旅をすみかとす。

 
 「おくのほそ道」(元禄15年刊)の巻頭である。
 元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行
および俳諧。

 1689年春に江戸深川を舟で出発、千手から
陸路を北上。
 当時芭蕉は46歳。弟子で6歳年下の曾良を
伴ってのふたり旅だった。

 最大の目的地は、松島と平泉それに象潟で
あった。
 
 「月日というものは、永遠の時間を旅する
旅人みたいなもので、やって来ては去ってい
く年月も、やはり旅人のようなものなのだ。
舟の上で一生はたらく船頭さんも、馬をひい
て年をとっていく馬方さんも、毎日の生活
そのものが旅なわけで、旅を自分の家にし
ているようなものなのである」

 芭蕉は、門人曾良ただひとりを連れ、てく
てくと歩きに歩いた。

 東北から北陸へと歌枕などをまわり、終着
点は大垣。
 5か月間2400kmにおよぶ長旅だった。

 一方わたしと言えば、近畿から箱根の山の
トンネルをひかり号でくぐりぬけた。
 そして関東へ。

 友人宅などをめぐりにめぐり、ついには鹿
沼へやって来た。

 この地にも、芭蕉らの足跡をたどるよすが
がある。

 白沢街道を黒羽そして雲巌寺へ。
 わたしも40代の頃、芭蕉の歩いた道を少し
ばかりたどった。

 それでも漂泊の思いやまず、北海道へ。
 と行きたかったが、諸事情で断念。
 
 鹿沼で暮らし始めて、早や半世紀。
 いつか芭蕉翁が歩いた道をすべて、歩い
てみたいもの。
 そう思っているだけのことだった。

 結婚後、ひとりふたり三人と子ができるた
びにせわしさがつのった。

 さすらい欲は頭の隅に追いやられた。
 そしていつの間にやら、ずいぶんと月日が
経った。

 上方(かみがた)と話し言葉が違う。
 発想も生活習慣も異なる。
 不慣れな土地。

 働くのに楽ではない日々が数十年続いた。
 
 しかしながら、何やら楽しみを、と生来の
好きを求めた。

 クレヨンでのお絵描きはあまりに幼い。
 歌に活路を見出し、童謡から歌謡曲へ演歌
へと。

 文学はずいぶんと広くて、どう書いてもい
い随筆や小説へ。
 だが才は浅く、一流には届かず。

 決まりのある俳句や短歌は、うたごころあ
りといえども、一行たりとも書けず。

 さいわいにして歌謡界の大御所のバラード
を唄ったのが縁になり、名を残す。

 そうしてあちこちの舞台に、思うままに出
ているうちに眼が、耳が、歯が……。
 そして筋肉の衰えがきわまりし時。
 思わぬ災難にあいし。

 何事にも時(とき)がある。

 生まれるにも。
 死ぬるにも。
 
 人と会うにも。
 別れるにも。

 事故や災難にあうにも。

 まあ、人生50年。
 それ以上生きるのは相当の無理があるよ
うだ。

 今や、人は先進医療にすがり、百歳まで
はと考えるようになった。

 還暦の前後のこと。

 わたしはわたしの人生
 おおよそ八十歳まで。
 勝手にそう決めつけた。

 それがなんとも具合のわるいことに……。
 強く願ったわけではないが、なんども繰
り返して思うことになり果てた。

 わが潜在意識の番人は、
 「ああ、お前は八十を過ぎて生きるのはい
やなんだな。よし、それならばその通りに
してやろう」
 と、わが根深い思いを見透かされた。

 生きなおしは困難をきわめた。

 しかし、ついには
 「でも、大丈夫」
 と切り返した。

 国外はむろん、国内でさえ、いまだ訪れ
ない土地が少なからずある。

 数えで七十六歳。
 機会があればどこへでも行きたい。
 そんな思いが強くなった。

 幸いなことに、このたび、富士のすそ野
を訪れる機会がふってわいた。
 一泊二日。
 山梨の郡内地方で教員になるため、学ん
だり遊んだ5年間をかえりみる機会を得た。
 
 いざ行ってみると、観光よりも、人に興
味をそそられた。

 「元気でね」
 幼い子に会うたびに、そんな言葉を投げ
かけてしまう。

 大人たちには、工夫をかさねた。
 短い時間で打ち解けるよう努め、より親
しみのある会話を待ちのぞんだ。

 いつの間にか、生きとし生ける者に対す
る愛着が強くなっていた。

 人の世に存在する理由も何も、あったも
のではない。

 ああだからこうだから。
 科学的思考、即ち因果の認識しようのな
い世界。

 自分とは何ぞや。
 宇宙とは何か。
 かむかえたが、依然として判らず。

 大いなる力の存在を認め、ありのままに
暮らそうと、さかしらな思いはすべて捨て
て成り行きにまかせることにした。

 生きるのが楽になった

 人生航路の目的地がうすぼんやりと見え
てきた。

 我が、おくのおくのほそ道。
 長い長い旅路の終わりが近づいている。
 
 

 
 


 

    
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