油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

いつまでも、たたずんで。  (5)

2022-10-24 18:26:12 | 小説
 「おにいちゃん、だいじょうぶう?」
 ふり向いた敏夫の顔が、よほど引きつって
いたのだろう。
 一頭のロバに引かれた直方体の大きな乗り
物の中から少女のかん高い声が飛び出した。
 「あっ、うんうん、だいじょうっぽいっ」
 敏夫は体勢をくずしながらも、白い歯を見
せ、おにいちゃんらしく、返答にユーモアを
交える。
 乗り物の車は、四本ともゴムでできていて、
馬車が揺れるたび、天井付近に付けられた数
多くの鈴がにぎやかに鳴った。
 「ほい、ぼく、気を付けるんだよ。この道
馬車の往来がはげしいからな」
 「はい」
 ロバをあやつる年配の男の人が、野太い声
で、敏夫をさとす。
 時おり、ごほんごほんと咳をする。
 (おかしいな、あんな馬車、前からこの道
走ってたんだろか。それにあの女の子って、
うっすら見おぼえがある。だけど、どこで会っ
たかなんてわかんないな。うちの学校の低学
年にあんなかわいい子いなかったように思う
し、御者の方だって若気にしてるけど、けっ
こう年とってるよな)
 女の子とのはっきりした出会いの場面を敏
夫が思いだそうとするが、頭の中に霧がかかっ
てしまう。
 すれ違いざま、互いにほんの数秒、顔を合
わせただけなのに、その少女の顔がやけに脳
裡にきざまれる。
 そのことが、敏夫を、とても困惑させる。
 おかっぱ頭に赤いリボン、薄桃色の毛糸の
上着がなんともあざやかだ。
 腰から下は見えないはずなのに、ライトグ
リーンのパンツが、彼女の両足首までおおっ
ているのがわかる。
 あっという間に、その馬車は、うっそうと
した杉の木立のなかに消えてしまった。
 (あれって、ひょっとして、トテ馬車って
いうんじゃ、いつかお父さんのパソコンをい
じっていてわかったことだけど……)
 敏夫はさかんに首をひねる。
 少女は大きな箱状の乗り物から身を乗り出
し、思い切り、左手を振っていた。
 「おにいちゃん、また会おうね」
 その声がほんの一時、木立の中で響いてい
たが、それがしじまの中に埋もれるのに、大
した時間がかからなかった。
 (あんなにぎやかな馬車が、こんなに細く
て暗い道を、今までずうっと行き来していた
んだろか。なんかミステリーじみてる)
 大きなはてなマークをかかえながら、敏夫
は、大杉の並み木のわきを急いで流れ下る清
流を早く見たくて、古ぼけた小さな石橋を一
気にわたった。
 いきなりピー、ピーッと連続して、大きな
笛の音が聞こえた。
 この小高い丘の下を走る列車が来たんだと、
敏夫は思う。
 左右にこきざみに巨体を揺らせながら、下
り列車が近づく。
 線路を踏みしめ、きしませながら、重くて
がんじょうな鉄製のわだちが、電気の力で駆
け上がって来る。
 思う間もなく、それは敏夫の目の前、線路
わきの木立の中をすばやく通り過ぎていく。
 線路まで降りるのに、手すりの付いた細道
が曲がりくねっている。
 おそらく子どものものだろう。
 下から軽い足音がして、小学校二年生くら
いの男の子が、敏夫の目の前にあらわれた。
 「こんにちは」
 敏夫に笑顔であいさつしながら、足早に歩
き去っていく。
 右手に金属製のバケツ、左手にボウ竿を大
事そうにたずさえている。
 あっこれってと思い、敏夫は彼に何かを語
りかけようとした。
 その男の子は、ふと、石橋の上であゆみを
とめ、回れ右をする要領で振りかえり、
 「さよなら、おにいちゃん、またね」
 と言った。
 馬車の女の子といい今の男の子といい、こ
れら両人に、敏夫は初めて会った気がしない。
 なんとも奇妙だ。
 胸がざわついてしかたがないので、敏夫は
もとの杉木立の細道にもどり、あたりを見ま
わしてみた。
 男の子は、さきほど馬車が歩き去ったと同
じ方向に速足で歩いて行き、もう少しで年老
いて巨大化した杉の木の根もとを曲がり切る
ところだった。
 「おおいきみさ、ちょっと待って。またねっ
て、どういうことなの」
 思わず、敏夫は大声をあげた。
 

 
 
 
コメント (1)
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