油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

いつまでもたたずんで。  (1)

2022-10-08 13:52:11 | 小説
 ある晴れた春の日の午後。
 大杉村の小谷川のほとりは、子どもたちで
にぎわっています。
 網を手に蝶を追いかける子がいます。
 れんげや青い小さな花たちが、川の土手を
かざっています。
 つくしんぼうをつんでいる子もいました。
 水際でぼう竿をもち、釣りにむちゅうな男
の子もいました。
 針の先にはごはん粒が付けてあります。
 男の子は、うきの先を、しんぼう強く見つ
めています。
 「どうだね、坊や。つれたかい」
 杖をついた、しらが頭のお年寄りが声をか
けました。
 「うん、一匹だけ」
 バケツの中で、小さな魚がはねまわってい
ます。
 まるで空から虹が下りてきたようです。
 「きれいな魚だね。名前はなんていうの」
 「タナゴっていうんだ」
 「へえタナゴか。おもしろい名じゃな。う
うう、ごっごっほん」
 「おじいちゃん、どうしたの」
 「ときどきな、せきが出て、止まらなくな
るんじゃ」
 「ぼくが背中をさすってあげる」
 男の子が立ちあがり、老人の背をなではじ
めました。
 「おまえはいい子だな。いくつになった?」
 「六さい」
 「なまえは?」
 「ゆうじ」
 「いい名じゃ」
 老人はこくりこくりとかぶりをふり出しま
した。
 男の子が老人の背を小さな右手でポンポン
とたたきますと、
 「だいぶ気持ちが良くなった。もういいぞ」
 うれしそうに言いました。
 まもなく、風が吹き出しました。
 波のせいでうきが見えなくなりました。
 「あああ、もうだめだ。釣れないや。ぼく
もう帰るけど、おじいちゃんどうするの」
 「どれ、じゃあ、わしも」
 「おじいちゃん、おうちはどこなの」
 「わしはな、ほうれ、向こうに杉のなみ木
が見えるじゃろう」
 男の子は、きょろきょろと、あたりを見ま
わしますが、発見できません。
 「ぼく、ちっちゃいからだめなんだ」
 かなしげに、顔を下に向けました。
 老人は、村では名の知れた杉の大道を、指
さしていました。
 誰がいつうえたか、わかりません。
 縦に二列にはてしなくつづき、となり村に
入ってもまだまだつづきました。
 杉と杉の間を、車がぶうぶう煙をふき出し
ながらとおっていました。
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
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10月8日(土) 晴れ

2022-10-08 11:47:18 | 随筆
 朝八時、起床。

 頭の芯の疲れは、まだ取れないでいる。
 わるい夢をふたつほど見た。
 うなされていたらしい。

 気温十度に満たないくらいのゆうべの寒さで
ある。
 縦にかぶっていた厚めのふとんが、気が付く
と横向きになっていた。

 今少しで、みずからのあえぎ声で目がさめて
しまうところだった。

 悪夢の内容は、憶えていない。
 昼間もそれらを引きずり、生きていかなきゃ
ならないとしたら……。

 ゆめとうつつの境がはっきりしなくなったと
したら、怖くてどこにも出かけられないだろう。

 こころとからだ。

 これほど科学万能の世の中になっても、それ
らのつながりがどうなっているか。
 さだかでない。

 科学は自然を究明するための、ひとつの手段
に過ぎないと思うからである。

 自然は深く、とても奥行きがある。
 神でない、われわれ人間にとって、とうてい
理解をきわめるのはむずかしいだろう。

 われらは肉眼でまわりを見る。
 耳で、音を聞く。
 手で触れなどして、認識する。

 考えたり、言葉を発したりする。

 あれは山であり、それは川である。
 向こうから来るのは、確かAさんだとかBさん
だとか……。

 互いに意見を言い合ったり。
 愛し合ったり、憎みあったり。
 そして、……。

 われらは言葉をしゃべる機能を有する、不思
議なほど精巧につくられた動物である。

 やわらかく傷つきやすい肉体を、細心の注意
を払いながら日々暮らしている。

 いかにして、こんなものが、世の中に存在し
ているのか。

 ホモサピエンスとかいうのだそうですね。
 ほかの種類は、自然淘汰の憂き目にあったの
でしょうか。

 現代はロボットというより、AIというらしい。

 わたしは鉄腕アトムや鉄人28号の漫画を読
んで育った世代である。

 今の若者にはとうていついていけない。
 スマートフォンだって、使うのがやっとこ。

 今ではコンピューター技術がよほど優れてい
て、驚くほど繊細に動くロボットがつくられて
いる


 gooさんにお世話になり、ブログを作成して、
ほぼ十年経った。

 ここらで心機一転したいと思う。

 古希を過ぎてもうすぐ五年になり、実年齢か
らくる体の衰えがいやに気になる。

 身体の衰微が、今回のごとき夢を観させるの
かもしれない。

 ヤフブロでも長く、お世話になった。
 このままでは、そこに書いた記事がかわいそ
うに思える。

 少しずつ、日のめをみせてやりたい。
 
 書き始めたばかりの拙作。
 自分でも下手だったなあ、と思う。
  
 よろしければ、どうぞお読みください。
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10月1日(土) 晴れ 残暑きびしい。 

2022-10-01 18:36:45 | 日記
新しい月に入れ替わった。
10月。
旧暦ではなんといっただろう。

むつき きさらぎ やよい うづき さつき
みなづき  ふつき  はづき  ながつき
かみなづき  しもづき  しわす

手元にあった高島歴をひもとく。

ああ、そうだった。
神無月というんだった。
神さまがおられないんだ。どうしてだろう。
中学二年生の秋だった。
そんな思いを抱いたことがあった。

八百万の神々が集う地、出雲にありとあらゆ
る神さまが出かけてしまい、他の土地は神が
いない。
そんな意味合いだそうだ。

今、ようやく中学二年生の時分の疑問が解け
た気がする。しかしながら、この頃のじぶん
といったら、ふわふわして雲の上にいるよう
な存在に近い。忘れっぽくなったり、からだ
の不調に気をもむ。
少年だった、みずみずしさにあふれた頭脳は
今はない。

古希を過ぎても前頭葉をきたえることで、若
干、老化を防げるらしい。
がんばりたいものである。

「かんなづきのころ くるすの というとこ
ろをすぎて……」
 (徒然草だったろうか……) 
頼りない頭に、古文とおぼしき一節がふと浮
かんだ。
 
中学の国語の授業だったろう。
唱歌好きのわたしは、抑揚をつけて声に出し
て読んだ。
意味はわからない。
だが、とても気分が良かった。 

夕刻、最寄りの山にのぼる。
墓地わきの畑の草が気がかりだった。
案の定、二尺近い茎のほっそりしたねこじゃ
らしの如き草でおおわれている。
けものの出没でここ数十年、この畑は何も作
付けができないでいる。

 「おおい、早くしないと、日が暮れるぞ」
  ふいに義父の呼びかけが耳の奥でひびい
たように思えた。
 「うん、わかったよ」
中腰の姿勢で芋を拾いつづけていたせいで
顔を上げるのに時間がかかる。
コンテナに入れ、テイラーまで運ぶ。

昭和五十年から数年の間、ここでコンニャク
イモの栽培をした。
お寺の山の杉の木立が、太陽が傾いて行く方
向に林立。午後四時を過ぎると、畑はすべて
日かげに入った。
空気がぐっと冷え込んだ。

十一月、陰暦のしもづきに三年玉すなわち売
り玉の収穫に追われる。
直径が十センチ以上はあったろう。

四十七年前の世界に迷い込んでしまい、そこ
から抜け出るのに暇がいった。

何も作付けしなくも、草ぼうぼうにしておく
わけにはいかぬ。
 (あしたは早く起きて、草をからなけりゃ)
そう心に決めまなじりを決して山をくだった。
 
 

  
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