セミの終わる頃(12)

2017-01-02 09:14:28 | 小説
  第七章 自然の中に

白石は、いつも本社で勤務をしているが、進捗確認のために工事の現場事務所に頻繁に訪れていた。温泉宿の取り壊し、近隣の丘の造成、そして広大な平地となった場所の整地等の進捗について、現場監督から工程表との差が無い事の説明を受けた後で、全体が見渡せる高台に登って、自分の目でも確認をしていた。

治子も時折この高台に登ってきては変わり行く風景に涙を流していた。
そして、この高台に来る時に必ず鹿が治子に寄り添っていた。
「私も寂しいけれど、あなたも寂しいのね。」
治子の問い掛けに鹿がうなずくような仕草をして、潤んだ目で治子の顔を見ていた。

心の張りを失ってしまった治子は風邪をひいて寝込んでしまい、熱でうなされている時に、治子の夢の中に鹿が出てきて
「治子さん、僕を助けてくれてありがとう。しかし、僕を介抱してくれた温泉宿は壊されてしまったね。僕は助けてもらったおかげでお嫁さんをもらって雄の子供もできました。
僕は、猟師に殺されたお母さんの代わりに、治子さんをお母さんだと思って甘えていました。だけれど、僕の心の中の治子さんはお母さんから恋しい人に変わっていきました。
鹿の僕が人間の治子さんをお嫁さんにすることができないのは分りますが、僕の治子さんを想う気持ちを押さえる事ができません。
そして、治子さんを悲しい思いにさせている白石という男を、僕は許せません。
明日、白石に仕返しをします。鹿の僕は人間には勝てないと思うので、僕が高台に居て白石を待っていて、白石が来たらぼくがぶつかっていって崖から突き落とします。僕も一緒に落ちるかもしれませんが僕は構いません。
そして、僕の治子さんを愛する気持ちを、僕の子供の雄鹿に引き継がせます。」

「待って、止めて。あなたの私を愛する気持ちは前から気付いていたわ。だけれど、私の代わりに白石さんに仕返しをしなくてもいいの、あなたは雌鹿や小鹿のために生きなさい。」

高熱の治子が目を覚ますと時計は十時を指していた。
白石がいつも十時頃に高台から全体を見回して、それから現場事務所で進捗状況の説明を受けることにしているのを知っている治子は高台へ急いだ。

その時救急車とパトカーのけたたましいサイレンの音が高台に向って行くのが聞えた。
治子が現場事務所に着くと息絶えた白石が救急車で運ばれるところであり、近くには一匹の鹿が横たわっていた。
治子が鹿を抱き抱えようとしたが、警察官から実況検分中だと制止された。
現場監督が、高台から「ギュルギュル、ギュ~イ。」と動物の吠える声が聞えた直後に、白石と鹿が落ちてきたのだと警察官に説明をしていた。

警察官の実況検分が終り、治子は手伝ってもらって鹿を連れて帰り、鹿の頭を両手で抱えて顔に口付けをしてやると、鹿はかすかに目を開けて何かを訴えるように口を震わせた。た。
「しっかりして、死んだらダメ、死なないで。」
と叫んで抱きかかえた時に治子は鹿の訴えていることが手に取る様に感じられた。
「治子さん、ぼくは死ぬと思います。しかし、白石への仕返しができたので満足しています。そして、ぼくは死んでからも治子さんをずっと愛し続けます。」

白石が湯治場に来た時はセミがまだ泣いていたが、白石が鹿に高台から突き落とされた時に、激しく鳴いていたセミが一瞬鳴きやんで、あたり一面の空気が凍りついたようにシーンとなり、時が止まったようであったという。
治子は鹿の執念に驚かされ、一瞬の静寂があったのを理解するのはたやすかった。