セミの終わる頃(16)

2017-01-06 21:51:15 | 小説
あなたのお父さんもお嫁さんをもらって、あなたが生まれたのよ。
みんな、みんな生きているのよ。
私も死ななくて良かったと、本当に思っていたわ。
そして、あなたが生まれてからも、あなたのお父さんは私を慕ってくれていたのよ。

私がお世話になっていた温泉宿は経営が難しくなって、他の会社からお金を借りたのだけど、その会社が、私が前に働いていた会社に売り渡したの。

温泉宿のおかみさんは、常連客がくつろげなくなるようなリゾート施設にすることに反対していたのだけれど、会社の方針は変わらなくて、素晴らしい自然を破壊して工事が始まってしまったのよ。あなたのお父さんは、それを許せなかったのね。

そして、白石さんが乗ったタクシーが温泉宿に近付いてくるとあなたのお父さんは「ギュルギュル、ギュ~イ。ギュルギュル、ギュ~イ。」と激しく威嚇するように吠えたのよ。
私には解るのだけれど、あなたのお父さんは、白石さんをライバルのように思っていたのよ。

白石さんの会社はね、温泉宿の取り壊しや、近隣の丘の造成、そして、広大な平地となった場所の整地等を行って、この素晴らしい自然を壊していったの。

そして、白石さんは全体が見渡せる高台に登って、工事の進み具合を頻繁に見に来ていたの。私も時折この高台に息を切らしながら登ってきては、変わり行く風景に悲しんでいたわ。
私がこの高台に来る時に必ずあなたのお父さんが私に寄り添っていたのよ。

「私も寂しいけれど、あなたも寂しいのね。」
と言うと、あなたのお父さんも、うなずくような仕草をして、潤んだ目で私の顔を見ていたわ。

そして、私は心の張りを失ってしまって風邪をひいて寝込んでしまったの。
熱でうなされている時に、夢の中にあなたのお父さんが現れて、
「治子さん、僕を助けてくれてありがとう。しかし、僕を介抱してくれた温泉宿は壊されてしまったね。僕は助けてもらったおかげでお嫁さんをもらって子供もできました。
僕は、猟師に殺されたお母さんの代わりに、治子さんをお母さんだと思って甘えていました。だけれど、僕の心の中の治子さんはお母さんから恋しい人に変わっていきました。
鹿の僕が人間の治子さんをお嫁さんにすることができないのは分りますが、僕の治子さんを想う気持ちが押さえ切れません。
そして、治子さんを悲しい思いにさせている白石という男を、僕は許せません。明日、白石に仕返しをします。そして、僕の治子さんを愛する気持ちを、僕の子供の鹿に引き継がせさせます。」
と言ったのよ。

私は、
「待って、止めて。あなたの私を愛する気持ちは前から気付いていたわ。だけれど、私の代わりに仕返しをしなくてもいいの、あなたは奥さんや小鹿のために生きなさい。」
と言ったの。

そして、私が目を覚ますと時計は十時を指していたの。
白石さんがいつも十時頃に高台から全体を見回して、それから事務所で説明を受けることにしていたのに気が付いて、私は急いで高台へ行ったの。
その時に救急車とパトカーのけたたましいサイレンの音が高台に向って行くのが聞えたのよ。

私が工事現場に着くと息絶えた白石さんが救急車で運ばれるところで、近くにあなたのお父さんが息をしない状態で横たわっていたの。私はあなたのお父さんを抱き抱えて、現場監督さんから状況を聞いたの。
現場監督さんは、高台から「ギュルギュル、ギュ~イ。」と動物の吠える声が聞えた直後に、白石さんとあなたのお父さんが落ちてきたのだと説明してくれたの。
私は手伝ってもらってあなたのお父さんを連れて帰って、頭を両手で抱えて顔に口付けをしてあげたの。

それから、私は違う湯治場の温泉宿でおかみさんとして働き始めたのだけれど、お母さんの思ったとおりで、常連客が常連客を呼ぶという状況となって、温泉宿の経営は順調になっていったのよ。