セミの終わる頃(14)

2017-01-04 21:37:24 | 小説
  第九章 新たな温泉宿のおかみに

治子が働いていた湯治場の温泉宿が無くなってからは、近くのスーパーマーケットで働きながら、お世話になったおかみさんをお母さんと呼んで一緒に暮らしていた。

「治子さん、あなたはスーパーマーケットで働くより湯治場で働く方が似合っていると思うのよ。」
「そうかしら。」
「そうよ、お客さんをすごく大切にするものね。」
「だったら嬉しいわ。」

ある日、お母さんの元に温泉宿の常連客だった人から、他の温泉宿からおかみさんを探しているという話があり、お母さんの代わりに治子がおかみさんとして働く事になった。
そこも以前と同じように、常連客がくつろげる古い温泉宿であった。
「私にできるかしら?」
「あなたなら大丈夫よ。他の人のために一生懸命に生きようとするあなたの心が、湯治場に癒されに訪れるお客さんに絶対に伝わると思うの。」
「そうかしら?」
「そうよ、私が保証するわ。」

そして、治子は今までと違って、お母さんの居ない温泉宿でおかみさんとして働き始めたが、お母さんの思ったとおり常連客が常連客を呼ぶという状況となって、経営危機となっていた温泉宿の経営は順調に推移していった。

治子の頑張りにおかみさんは安心して見守っていたが、年には勝てずセミの鳴き終わる頃に他界していった。
「お母さん、あなたに生かされた私はこの地を愛して、お客様を愛して、鹿を愛して、素晴らしい私を愛して、幸せです。
これからも自分を大切に生きて行きますね。」

その年のある日、巨大な台風が湯治場を通過する危険性がでてきて、従業員全員で温泉宿の痛んでいる窓や庇の修理を行なった。
そして風雨共に強くなり温泉宿の中でじっと台風の通過を待っていると、玄関の雨戸がトントン、トントンと誰かが叩く音がしたので、隙間から覗いてみると、鹿の親子が居て親鹿が前足で雨戸を叩いていたのである。
治子は急いで鹿を温泉宿の土間に入れてやると、鹿は治子の袖をくわえて玄関の外へ引っ張ったが、
「今は無理よ、台風が去ってからね。」
と鹿を諭して台風の通過を待った。
そして、風雨が収まった頃に鹿が、治子の袖をまた引っ張ったのでついて行くと、鹿は商社が建設したリゾート施設に向って行った。

そして、治子はリゾート施設の変わり果てた状況に目を奪われた。
小高い丘を無理な造成を行なったことにより、法面が崩れてリゾート施設全体が土砂で押し潰されていたのである。治子の勤めている温泉宿は古くからの地山なので災害は免れていたのだった。

「あなたのお父さんも命を掛けて、ここの造成工事を反対していたわよね。」
治子の呼び掛けに鹿は大きく頷いて見せた。