第十章 年老いた治子の回顧
湯治場で働き始めた頃から毎年、セミの鳴くのを聞き始めた時と、セミの鳴かなくなった時で、季節を感じていた治子は温泉宿で鹿との思い出を振り返っていた。
「この温泉宿にお世話になってから随分なるわね。それに、あなたとも永いわよね。」
鹿の寿命は十五年くらいだが、この鹿はそれ以上の年数を治子と一緒にいる。
「だけどね、私が今生きているのは、あなたのお父さんのお陰なのよ。あなたのお父さんと出会わなかったら、私は自殺していたのよ。」
治子には鹿が微笑んでいるように見えると同時に、頷いているようにも見えた。
「あなたの、その微笑みはお父さんと同じね。」
今度は大きく頷いて見せた。
「こっちにおいで。」
治子は鹿を座っている所に呼び寄せると、嬉しそうに治子の膝の上に頭を乗せて寝そべった。
「あなたは可愛いいわね。あなたが人間だったら結婚していたでしょうね。」
治子が額に口付けをすると、鹿は目を閉じてうっとりと満足そうにしていた。
そして、治子は鹿に聞かせるのでもなく自分のこれ迄の出来事を話し始めた。
「小さい頃の私は頑張り屋さんでね、何でも自分でやってきたの。勉強も運動もみんなに負けないように頑張ったのよ。会社でも人一倍頑張っていたんだけれど、それは恋人の居ない寂しさを仕事で紛らわしていたのよね。そして、一緒に仕事をしている白石という男性と仲良くなってしまったの。だけれど、本当にその人を好きになったのではなく、現実をごまかしていたのよね。
そして、忙しい時にミスをして会社に損失を被らせてしまった時に、自分は一人ぼっちで恋人ごっこで自分の心をごまかしていたのに気が付いたの。そして、仕事の空間に私一人取り残されて、すごく寂しかったわ。」
「商社という会社は評価が厳しいので、大きな失敗を犯すとすぐに評価が下がるの。一生懸命に仕事をやってきたのに、寂しかったわ。そして、あまり忙しくない部署に配属となり時間を持て余すようになって、抜け殻のようだったの。
そして私はある日、目的の無い旅行に出たの、いや、死ぬ場所を探す旅行に出たの。そして、暗くなってきたのでこの場所の駅に下りたの。夢も目標も失っていた私が、猟銃によって母鹿を失い、頭にケガをした小鹿を見た時に小鹿を助けなくちぁと思い、死ぬ事だけを考えていた私が、小鹿に生きて、生きて、と叫んだの。その小鹿があなたのお父さんよ。それから、怪我も治り、私の子供のように甘えてくれて、私の生きる目標ができたのよ、嬉しかったわ。」
湯治場で働き始めた頃から毎年、セミの鳴くのを聞き始めた時と、セミの鳴かなくなった時で、季節を感じていた治子は温泉宿で鹿との思い出を振り返っていた。
「この温泉宿にお世話になってから随分なるわね。それに、あなたとも永いわよね。」
鹿の寿命は十五年くらいだが、この鹿はそれ以上の年数を治子と一緒にいる。
「だけどね、私が今生きているのは、あなたのお父さんのお陰なのよ。あなたのお父さんと出会わなかったら、私は自殺していたのよ。」
治子には鹿が微笑んでいるように見えると同時に、頷いているようにも見えた。
「あなたの、その微笑みはお父さんと同じね。」
今度は大きく頷いて見せた。
「こっちにおいで。」
治子は鹿を座っている所に呼び寄せると、嬉しそうに治子の膝の上に頭を乗せて寝そべった。
「あなたは可愛いいわね。あなたが人間だったら結婚していたでしょうね。」
治子が額に口付けをすると、鹿は目を閉じてうっとりと満足そうにしていた。
そして、治子は鹿に聞かせるのでもなく自分のこれ迄の出来事を話し始めた。
「小さい頃の私は頑張り屋さんでね、何でも自分でやってきたの。勉強も運動もみんなに負けないように頑張ったのよ。会社でも人一倍頑張っていたんだけれど、それは恋人の居ない寂しさを仕事で紛らわしていたのよね。そして、一緒に仕事をしている白石という男性と仲良くなってしまったの。だけれど、本当にその人を好きになったのではなく、現実をごまかしていたのよね。
そして、忙しい時にミスをして会社に損失を被らせてしまった時に、自分は一人ぼっちで恋人ごっこで自分の心をごまかしていたのに気が付いたの。そして、仕事の空間に私一人取り残されて、すごく寂しかったわ。」
「商社という会社は評価が厳しいので、大きな失敗を犯すとすぐに評価が下がるの。一生懸命に仕事をやってきたのに、寂しかったわ。そして、あまり忙しくない部署に配属となり時間を持て余すようになって、抜け殻のようだったの。
そして私はある日、目的の無い旅行に出たの、いや、死ぬ場所を探す旅行に出たの。そして、暗くなってきたのでこの場所の駅に下りたの。夢も目標も失っていた私が、猟銃によって母鹿を失い、頭にケガをした小鹿を見た時に小鹿を助けなくちぁと思い、死ぬ事だけを考えていた私が、小鹿に生きて、生きて、と叫んだの。その小鹿があなたのお父さんよ。それから、怪我も治り、私の子供のように甘えてくれて、私の生きる目標ができたのよ、嬉しかったわ。」