第2次世界大戦の終戦を挟んで大きな地震が4回おこった。
つい最近まで、そのことを知らなかった。たまたま見たテレビ番組で知った。
4大地震とは、
1943年(昭和18年)9月10日発生のマグヌチュード7.2の鳥取地震。
1944年(昭和19年)12月7日発生、マグニチュード昭和東南海地震。
1945年(昭和20年)1月13日発生、直下型の三河地震。
1946年(昭和21年)12月21日発生、マグニチュード8.0昭和南海地震。度々起こる中で一番大きかったので、単に南海地震と言えばこの時の地震をさす。
これらの地震は戦中戦後の混乱期に起こり、報道もあまりなされていない。
特に、戦争中の地震では、軍需工場等が甚大な被害を受け、戦争相手国に知らせないために、被害は微少と報道されている。
従って、あまり知られてはいない。
東南海、南海地震は過去に約100年から150年間隔で発生している。
その歴史を振り返ると、同時に発生した1605年の慶長地震、1707年の宝永地震、1854年には安政東海地震の発生した32時間後に安政南海地震が起こっている。
昭和に入って、1945年の三河地震を挟んで2年間隔で起きている。
先日の毎日新聞にNHKのBS歴史館「復興のカギは民にあり-幕末・安政の大地震に立ち向かった男」という番組について書かれていた。
この番組は私も興味を持って見た。
主人公は、醤油商(ヤマサ醤油の前身)の主人・浜口梧陵、醸造所は千葉にあったが、出身地は紀州の広村。
安政南海地震の時、田んぼの稲村に火をつけ、村人たちに津波を知らせるとともに足元を照らし、村人たちを救った。これは「稲むらの火」と題して、昭和12年から22年まで、尋常小学校の5年生用の教科書に載っている。
この話は、小泉八雲によって外国にも紹介されている。
浜口梧陵は、災害復興にも資材をなげうって尽力した。
中でも、特筆すべきことは、津波からまちを守る堤防の構築である。
この堤防のおかげで、昭和南海地震の際、津波の被害を防いだ。
今、被害発生はやむを得ない、被害を最小限に留めるという意味で、「減災」と言う言葉が使われるが、梧陵の築堤は、正に、防災であった。
為政者は、決して減災と言うような言葉を使ってはならない、あくまで、その精神は防災であるべきである。