異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

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大雪の中「SOS」を拡散!立ち往生した列車に善意が続々と集まる(2016.1.24 佐賀JR有田駅)

2016-01-27 10:01:52 | シェアー

http://grapee.jp/135090 より転載

大雪の中「SOS」を拡散!立ち往生した列車に善意が続々と集まる

出典:Facebook

2016年1月24日に西日本を襲った、強烈な寒波。沖縄本島では、40年ぶりの雪の観測に歓喜の声も上がるほど。

しかし、普段雪の降ることのない地域での降雪は、交通機関などに多大な影響を与えていました。

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出典:Facebook

8時間立ち往生

佐賀県にあるJR有田駅では、博多行き「特急みどり10号」が大雪のため運行停止。

約8時間にわたり乗客200人以上を乗せたまま、運転再開の見通しが立たなくなってしまいました。

列車内は、暖房などが効いていたものの足元は寒く、雪に慣れていない人たちにとっては、厳しい寒さだったようです。

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出典:Facebook

長時間駅に停車している中、問題になったのが食料。歩いていける距離のコンビニ、売店での品切れが発生してしまいます。

有田の人にお礼を

現状を知った有田の町おこしをしている『Arita Ceramics Railway 町作りプロジェクト』が、Facebookで食料などの供給を呼びかけると…。

町の職員や地域の住民、さらには学生たちまでもが、動けなくなったみどり10号の乗客のために、おにぎりなどを持ってきてくれたそうです。

中には、自分たちの夕食用に作った食べ物や毛布などを持ち込んでくれる方も。

多くの人の善意が集まり、寒い中長時間にわたり動けなくなった乗客たちを助けました。

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出典:Facebook

その後みどり10号は、21:00頃佐世保駅に引き返すことになります。

乗客の中には、「有田の方々にお礼を伝えてください」「美味しかった、ありがとう」という言葉をかけてくれた人もいるそうです。

記録的な大寒波に見舞われた西日本。こういった地域の結束や人々の優しさには心が温められますね。

 

FBからのコメント=================== 

I・Jさん  佐賀もんはみんな温かい人たちばかり。今年は有田焼400年。
        素晴らしい「記念事業」だ!

T・Aさん  うちの娘も、おにぎりとお茶をいただきました。
        有田の皆さん、本当にありがとうございました‼

★T・Nさん  これこそがSNSのやり取りですね。
        イジメや誹謗中傷ではなく、正しく使われたら最高ですよね!

★K・Tさん 良かね〜!
        ぬくか気持ちが皆を温めてくれるんばい。

 

 

 

 


【福島原発】裁判へ 原発告訴団長の決意 事故の責任はっきりと/私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼です

2016-01-27 00:43:45 | 福島、原発

東京新聞 TOKYO WEBhttp://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/tohokujisin/fukushima_report/list/CK2016012602000194.htmlより転載

裁判へ 原発告訴団長の決意 事故の責任はっきりと

「二度と同じ不幸を繰り返さないためにこの裁判が大切」と話す武藤類子さん=福島県田村市で

写真

 福島第一原発の事故を引き起こした東京電力幹部の刑事責任を問う裁判で、東京第五検察審査会は昨年七月、勝俣恒久元会長ら三人の強制起訴を議決した。近く裁判が始まる。告訴した福島原発告訴団の武藤類子団長(62)は、もともと故郷・福島の里山で自然と共に生きる生活を目指した人だった。そんな武藤さんは、なぜ、「鬼」となったのか。

 原発事故から半年が経過した二〇一一年九月。東京都内で「さようなら原発五万人集会」が開かれた。壇上に立った武藤さんは「私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼です」とスピーチする。言葉は感動を呼び、脱原発運動を勢いづける力となった。

 その「鬼の棲(す)みか」は阿武隈山地に抱かれた福島県田村市にある。穏やかな山と川に囲まれたロッジ風の家が武藤さんの自宅だ。春には観光客でにぎわう三春の滝桜などにもほど近い。

 特別支援学校教員を十七年務めた後、〇三年にこの場所に里山喫茶「燦(きらら)」を開店した。裏山で拾ったドングリを食べたり、野草を摘んでお茶にしたり、クリやキノコなど季節の山の幸も店の看板だった。

 「一九八六年にチェルノブイリの事故が起きました。福島にも十基の原発があった。本当に安全なのかと心配になったのが環境問題に関心を持ったきっかけです。『脱原発福島ネットワーク』をつくり、仲間と勉強会などをした。そうした活動の中で、まず自分の暮らしを見詰め直そうと考えた。そこで父が持っていた里山の開墾を始めたんです」と武藤さんは話す。

 自然食や太陽光利用のワークショップなども開催した。

 そんな生活を根底から覆したのが、一一年三月の福島第一原発の事故だった。

 原発から燦まで約四十五キロ。家族や近所の人と一緒に少しでも遠くへ行こうと吹雪の山道を車を走らせた。会津若松市、山形県天童市など知り合いの家を転々とした。数カ月して自宅には戻ったが、事故以来、店を開いたことはない。放射性物質が検出されたため、薪(まき)は燃やせなくなった。ドングリもキノコも食べられなくなった。開店から十年を迎えるはずだった一三年四月に廃業届を提出した。

 事故から九カ月後の一一年十二月十六日、野田佳彦首相(当時)は「原子炉の冷温停止状態を達成した」として事故の「収束」を宣言した。怒りに火が付いたのは、このときだ。

 「事故から一年近くがたつのに抜本的な救済策は何も提示されなかった。おかしいなと思っていたら、このありさま。これで終わりなのか。また誰も責任を取らずに済ますんだな。そう思ったら許すことができなかった」

 事故は明らかに人災だった。

 福島の原発は、八九年に第二原発の3号機で、原子炉に冷却水を送り込む再循環ポンプが破損する事故が起きている。第一原発も一〇年六月に、2号機で冷却系電源を全喪失する事態を招いた。武藤さんらは、そのたびに原因究明や再発防止を求めて東京電力に申し入れをしてきたが、こうした提言を一切受け入れずに、引き起こしたのが、今回の事故だ。

 事故から一年後の一二年三月、福島原発告訴団を結成し、団長となった。同六月、東電の元幹部三人を告訴・告発。東京地検は二度までも不起訴処分としたが、東京第五検察審査会は強制起訴を議決した。

 今後は補充捜査の終了を待って裁判が始まる。武藤さんらは今月三十日、東京の目黒区民センターホールで「福島原発刑事訴訟支援団 1・30 発足のつどい」を開く。裁判の行方を見守り支えるために全国から支援団へ参加を求めるつもりだ。

 昨年六月、国は閣議決定で福島復興指針を改定し、一七年三月までに居住制限区域と避難指示解除準備区域の避難指示をすべて解除し、賠償も打ち切る方針を発表した。武藤さんは、これについても「あきらめたり、忘れたりを強要する帰還復興政策」と切って捨てる。

 「福島の人は本当は誰も安全だとは思っていない。仕方がないから口をつぐんでいるんです。それもこれも、事故の責任をあいまいにしたところから始まっているような気がします」

◆ ◆ ◆

 「発足のつどい」に関する問い合わせは福島原発告訴団=電080(5739)7279=まで。(福島特別支局長・坂本充孝)

 

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「私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼です」

★<「さよなら原発5万人集会」(2011.9.19@明治公園)での武藤類子さんのスピーチ全文>

福島の皆さん、どうぞ立ち上がってください。
今日は福島県内から、避難先から、何台もバスを連ねて、
たくさんの仲間と一緒にやってまいりました。
初めて集会やデモに参加する人もたくさんいます。
それでも福島原発で起きた悲しみを伝えよう。
私達こそが原発いらないの声をあげようと、声を掛け合い誘い合ってやってまいりました。

はじめに、申し上げたいと思います。
3.11からの大変な毎日を、命を守るためにあらゆることに取り組んできたみなさん、
ひとりひとりを深く尊敬いたします。
そして福島県民に温かい手を差し伸べ、繋がり、様々な支援をしてくださった方々に
お礼を申し上げます。ありがとうございます。
そしてこの事故によって、大きな荷物を背負わせることになってしまった子供達、
若い人々に、このような現実を作ってしまった世代として、心から謝りたいと思います。
本当にごめんなさい。

さてみなさん、福島はとても美しいところです。東に紺碧の太平洋を望む
浜通り、桃、梨、林檎と果物の宝庫の中通り、猪苗代湖と磐梯山のまわりに黄金色の
稲穂が垂れる会津平野、そのむこうを深い山々が縁取っています。
山は青く、水は清らかな私達のふるさとです。

3.11原発事故を境に、その風景に目には見えない放射能が降り注ぎ、
私達は被曝者となりました。
大混乱の中で、私達には様々なことが起こりました。
素早く張り巡らされた安全キャンペーンと不安の間で、引き裂かれてゆく人と人との繋がり。
地域で、職場で、学校で、家庭の中で、どれだけの人が悩み悲しんだことでしょう。
毎日毎日、否応なく迫られる決断。
逃げる、逃げない。食べる、食べない。
子供にマスクをさせる、させない。
洗濯物を外に干す、干さない。
畑を耕す、耕さない。
なにかに物申す、黙る。
様々な苦渋の選択がありました。

そして今、半年という月日の中で、次第に鮮明になってきたことは、
事実は隠されるのだ。
国は国民を守らないのだ。
事故は未だに終わらないのだ。
福島県民は、核の実験材料にされるのだ。
莫大な放射能のゴミは残るのだ。
大きな犠牲の上になお、原発を推進しようとする勢力があるのだ。
私達は捨てられたのだ。

私達は疲れと、やりきれない悲しみに、深いため息をつきます。
でも、口をついて出てくる言葉は、
「私達をバカにするな」「私達の命を奪うな」です。

福島県民は今、怒りと悲しみの中から静かに立ち上がっています。
子供達を守ろうと、母親が父親が、おじいちゃんがおばあちゃんが、
自分達の未来を奪われまいと若い世代が、
大量の被曝に晒されながら、事故処理にあたる従業者を助けようと労働者達が、
土地を汚された絶望の中から農民が、
放射能による新たな差別と分断を生むまいと障がいをもった人々が、、
一人ひとりの市民が、国と東電の責任を問い続けています。
そして、原発はもういらないと声を上げています。

私達は静かに怒りを燃やす、東北の鬼です。
私達福島県民は、故郷を離れるものも、福島の土地に留まり生きるものも、
苦悩と責任と希望を分かち合い、支えあって生きていこうと思っています。
私達と繋がってください。
私達が起こしているアクションに注目してください。
政府交渉、疎開裁判、避難、保養、除染、測定、原発放射能についての学び、
そしてどこへでも出かけ福島を語ります。
今日は遠くニューヨークでスピーチをしている仲間もいます。
思いつく限りのあらゆることに取り組んでいます。
私達を助けてください。
どうか福島を忘れないで下さい。

もうひとつ、お話したいことがあります。
それは私たち自身の生き方、暮らし方です。
私達は何気なく差し込むコンセントの向こう側を想像しなければなりません。
便利さや発展が、差別と犠牲の上に成り立っているということに、
思いを馳せなければなりません。
原発は、その向こうにあるのです。

人類は地球に生きるただ一種類の生きものにすぎません。
自らの種族の未来を奪う生きものが、他にいるでしょうか。
私はこの地球という美しい星と調和した、まっとうな生きものとして生きたいです。
ささやかでもエネルギーを大事に使い、工夫に満ちた、
豊かで創造的な暮らしを紡いでいきたいです。
どうしたら、原発と対極にある新しい世界を作っていけるのか、
誰にも明確な答えはわかりません。

できることは誰かが決めたことに従うのではなく、
一人ひとりが、ほんとうにほんとうに、本気で自分の頭で考え、
確かに目を見開き、自分が出来ることを決断し、
行動することだと思うのです。
一人ひとりにその力があることを思い出しましょう。
私達は誰でも変わる勇気を持っています。
奪われてきた自身を取り戻しましょう。
原発をなお進めようとする力が、垂直にそびえる壁ならば、
限りなく横に広がり、繋がり続けていくことが私達の力です。

たった今、隣りにいる人と、そっと手を繋いでみてください。
見つめあいお互いの辛さを聞きあいましょう。
涙と怒りを許しあいましょう。
今繋いでいるその手の温もりを、日本中に世界中に広げていきましょう。
私達一人ひとりの背負っていかなければならない荷物が、途方もなく重く
道のりがどんなに過酷であっても、目を逸らさずに支えあい、
かろやかに、ほがらかに、生き延びていきましょう。

ありがとうございました。