バリ島に行った時とても印象に残った踊りがあった
善と悪がかぎりをつくして戦うのだが決着がつかない
ひきわけなのである
その ありように 心うたれてしまった
善が勝つのでもなく 悪が勝つのでもなく
お互いがお互いのありようのなかで
自分を確認し相手を確認していく
善は悪を滅ぼそうと思い 悪は善を滅ぼそうと思い
でも ひきわけで 踊りは終わる
このセンスというか視点がとても気にいってしまった
最後に愛は勝つという歌があったけど それは
愛と憎しみを区別し評価し判断する心
光と闇の関係
精神世界では闇というのは光のない状態である
ということがよくいわれる
じゃー 光というのは闇がない状態というのは成立しないのか
いまの自分の感じでは成立するのではないかと思える
神様というのが最終的な原因というか
それなしではありえない そういう存在というかありようというか
思いというか つめていって つめていって これ以上つめられませんよ
というところの何かをイメージしようとしてもイメージできない
時の始まるまえから 時の終わるあとまで
空間の始まるまえから 空間の終わるあとまで永遠にというのを
顕在意識でイメージしたり体感したりするのは
まー とても難しい
つーか ぼくにはイメージできない
ぼくは肉体的にも精神的にも有限の世界の中で生きていると思われるので
有限と思われる世界から無限という世界 ありようをイメージするということ自体
が 不可能として設定されているような気がする
有限という範囲で無限ということ 状態を 推測していく 仮定していくという作業
しか可能でないような気がする
ぼくはどうして生まれたのか どうして生きているのか どこにいくのか
いのちは なぜ なんのために あるのか
という問いの答えは仮説という形式でしか答えられないのではないかと思う
で その仮説を真実であると思いなして これこそが普遍性だと思いなしてしまう
のは ちょっと危険だとおもえてならない
有限であることの意識 エネルギーが 無限ということを規定するということ自体が
あらかじめ封印されているというか 有限が無限の全貌を知る 体験というのは
そう たやすいことではないというふうに思う
有限の存在は 無限を ある状態のとき一瞥できるというのが可能なのではないかと思う
で 宗教というのはそういう一瞥した無限を有限の世界に普遍化している作業なのでは
ないかと思える
各宗教の教えというのは無限への一瞥の違いなのではないか
というのが今の自分がたどりうる認識
人間という存在は死ぬといわれている
何が死ぬのか
物理的有機体としてのありようがなくなる というふうに考えることはできる
で 肉体は死んでも 魂は死なないという視点もあって
まー 今の自分としては そっちの視点のほうが おりあいがつきやすい というか
説明するのに無理がないという感じがする
で そこまでは自分の中で無理はないのだが わからないことがある
無限といっても 神といっても 創造主といっても 根本原因といっても おおいなるものといっても
それは有限の言葉でなんといってもいいのだが
なんというか その何かは どうして生まれたのか存在するようになったのかが
まったく わからない
動機も意図も仕組みもわからない
そもそも あったのだということでは納得できない
そもそも あるって どういうことなんだ
時の始まる前から時の終わる後まであるというのがさっぱりイメージできない
悟りという言葉がある
個の意識が全体の意識のなかに溶け込むというか
全体の意識が個の意識のなかに溶け込むというか
個と全体が同じこととして体験する状態を悟りというような感じだとおもうのだが
あるいは もともと 悟っているのだが 忘れているだけなのだ
ただ 思いだせばいいのだ といういいかたもある
なんというか いまの自分は悟ってもいないし 思い出してもいない
なので おいらは ちゃらんぽらん亀なのだ
![イメージ 1](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/08/46156723bb2b23fc4aeb53d1e1a514fd.jpg)
ということで きょうは おひらきなのだ
善と悪がかぎりをつくして戦うのだが決着がつかない
ひきわけなのである
その ありように 心うたれてしまった
善が勝つのでもなく 悪が勝つのでもなく
お互いがお互いのありようのなかで
自分を確認し相手を確認していく
善は悪を滅ぼそうと思い 悪は善を滅ぼそうと思い
でも ひきわけで 踊りは終わる
このセンスというか視点がとても気にいってしまった
最後に愛は勝つという歌があったけど それは
愛と憎しみを区別し評価し判断する心
光と闇の関係
精神世界では闇というのは光のない状態である
ということがよくいわれる
じゃー 光というのは闇がない状態というのは成立しないのか
いまの自分の感じでは成立するのではないかと思える
神様というのが最終的な原因というか
それなしではありえない そういう存在というかありようというか
思いというか つめていって つめていって これ以上つめられませんよ
というところの何かをイメージしようとしてもイメージできない
時の始まるまえから 時の終わるあとまで
空間の始まるまえから 空間の終わるあとまで永遠にというのを
顕在意識でイメージしたり体感したりするのは
まー とても難しい
つーか ぼくにはイメージできない
ぼくは肉体的にも精神的にも有限の世界の中で生きていると思われるので
有限と思われる世界から無限という世界 ありようをイメージするということ自体
が 不可能として設定されているような気がする
有限という範囲で無限ということ 状態を 推測していく 仮定していくという作業
しか可能でないような気がする
ぼくはどうして生まれたのか どうして生きているのか どこにいくのか
いのちは なぜ なんのために あるのか
という問いの答えは仮説という形式でしか答えられないのではないかと思う
で その仮説を真実であると思いなして これこそが普遍性だと思いなしてしまう
のは ちょっと危険だとおもえてならない
有限であることの意識 エネルギーが 無限ということを規定するということ自体が
あらかじめ封印されているというか 有限が無限の全貌を知る 体験というのは
そう たやすいことではないというふうに思う
有限の存在は 無限を ある状態のとき一瞥できるというのが可能なのではないかと思う
で 宗教というのはそういう一瞥した無限を有限の世界に普遍化している作業なのでは
ないかと思える
各宗教の教えというのは無限への一瞥の違いなのではないか
というのが今の自分がたどりうる認識
人間という存在は死ぬといわれている
何が死ぬのか
物理的有機体としてのありようがなくなる というふうに考えることはできる
で 肉体は死んでも 魂は死なないという視点もあって
まー 今の自分としては そっちの視点のほうが おりあいがつきやすい というか
説明するのに無理がないという感じがする
で そこまでは自分の中で無理はないのだが わからないことがある
無限といっても 神といっても 創造主といっても 根本原因といっても おおいなるものといっても
それは有限の言葉でなんといってもいいのだが
なんというか その何かは どうして生まれたのか存在するようになったのかが
まったく わからない
動機も意図も仕組みもわからない
そもそも あったのだということでは納得できない
そもそも あるって どういうことなんだ
時の始まる前から時の終わる後まであるというのがさっぱりイメージできない
悟りという言葉がある
個の意識が全体の意識のなかに溶け込むというか
全体の意識が個の意識のなかに溶け込むというか
個と全体が同じこととして体験する状態を悟りというような感じだとおもうのだが
あるいは もともと 悟っているのだが 忘れているだけなのだ
ただ 思いだせばいいのだ といういいかたもある
なんというか いまの自分は悟ってもいないし 思い出してもいない
なので おいらは ちゃらんぽらん亀なのだ
![イメージ 1](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/08/46156723bb2b23fc4aeb53d1e1a514fd.jpg)
ということで きょうは おひらきなのだ