暦の節季はもう寒露となり、やっと我が谷戸も秋の気配となって来た。
燈火親しき秋の夜は、読書人には最良の時節だろう。
さてここ数年、どうも相当な旧家や古寺などからまとまって放出されたらしい中世の古今切や古筆の良品が市場に大量に出回っている。
(直筆短冊 飛鳥井雅世 室町時代 竹彫筆筒 明時代)
平安末の俊成定家はじめ中世の錚々たる名筆の古筆家極め付(鑑定札)の歌切が、ネットオークションなどでも撰り取り見取りの状況で、書道愛好家達には我が世の春だろう。
私は名筆手鏡の古今集切ではなく自詠歌の短冊を幾つか入手した。
中でもあまり知られていない中世歌道家の雄、飛鳥井雅世ほか一族の短冊が見つかったのは幸運だった。
「風立たぬ名越の波は静かにて 干潟を漁るあしたづ(鶴)の声」雅世
飛鳥井家は代々将軍家の和歌と蹴鞠の指南役として鎌倉に赴任していて、当時たびたび争乱のあった鎌倉の名越の浜の平和な景を詠んだ歌は、飛鳥井流幽玄体では無いものの地元に住む私に取って感慨深いものだ。
南北朝以降の叙景的な幽玄歌は今で言えば一種のファンタジー映像なので、物質主義に毒された20世紀の学者評論家達にはなかなか情景が想起出来ないようで、あまり世に紹介されて来なかった。
(直筆短冊 飛鳥井歴代 室町時代)
そして先週遂に念願の室町飛鳥井家歴代の直筆短冊が揃い、文雅の徒としては赤飯を炊いて祝うべき慶事となった。
「秌(あき)の夜は己が臥所に置く露の 玉のうさぎを友と見るらし」雅親
彼にとって兎も露も月もファンタジー世界の草枕の友なら、私にはこの飛鳥井雅親、雅康、雅俊達がみな夢の歌宴の友に思える。
ーーー月明り留める秋の古庵の 闇辺に現(あ)れや旧き歌友ーーー
貧しき隠者ももせめて彼等との歌宴の華やぎにと、若い家人が教えてくれたスクリャービンの高雅なるコンチェルトを買って手向けた。
飛鳥井流の夢幻和歌に最も合うのは断然ロマン派のピアノコンチェルトだ。
妙(たえ)なる音曲は俗世の騒音を打ち消し、詩歌の浄域の結界となってくれる。
残念ながら戦後昭和の日本伝統文化の否定と西欧化で、和歌千年の夢幻世界は失われた。
写真は中世歌学の口伝を集めた細川幽斎の「耳底記」で、夢幻の和歌世界に浸るのに格好の手引書だ。
現代人は自分の時代の文化こそ最も高度な物だと信じているが、たぶん現実世界の厳しさは中世の方が上だったが故に、夢幻世界も今より余程美しかったのだろう。
例えば凡人の恋の一場面をリアルに描くのが現代短歌の主流だが、中世歌人は恋を美しき神話にまで昇華させようとしたのだから大違いで、返す返すも敗戦後の伝統文化否定が情け無くなる。
昭和頃は国文学者達まで万葉集贔屓で中世和歌はどうにも低評価だったが、玉葉風雅集や続古今集などはスピリチュアルなセンスが無い人には観応も出来ないから、今考えればそれも仕方なかったのだろう。
それより私は近年のアニメゲームなどのファンタジーで育った若い研究者の感性に大いに期待している。
©️甲士三郎