9月26日 (火曜日) 晴れ
歴史の解説書としては異例のベストセラーとなった『応仁の乱』(中公新書)読んだ。
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学生時代は、「人(1)の世むな(467)し」と語呂合わせで覚えた大乱は、
全国の諸大名が東西両軍に分かれて争われた。
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コラムには”次期衆院選は歴史の転換点となる選挙になりそうだ”と
▼両軍とも寝返りや内紛が相次ぎ、だらだら11年も続いた。
戦いの不毛さを象徴するようなエピソードがある。
西軍に所属する大名の家臣たちが、ストレス発散のために、
木製の杖(つえ)で木製の鞠を敵陣に打ち込む遊びに興じていた。
その勝敗をめぐってけんかになり、80人もの死傷者が出たという。
~~~~~~~~~~~~
▼英雄が誰一人見当たらない戦乱が、なぜこれほど注目されているのか。
著者の呉座勇一さんは小紙の取材に、こう答えている。
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「関係者の打つ手がことごとく裏目に出た。
そんな失敗の歴史を反面教師として学ぶ流れになっているのではないか」。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼北朝鮮の「核・ミサイル」の脅威が日に日に高まるなか、
安倍晋三首相は昨日、28日の臨時国会冒頭での衆院解散を表明した。
北朝鮮への圧力を強化して、少子高齢化社会で「生産性革命」を進める
強固な政権を作る。戦いの大義名分は立っている。
▼その大切な戦いを前にして、民進党から離党者が相次いでいる。
自民党からも「小池新党」に参加する動きが出始めた。
新党の理念に賛同するというより、とにかく寝返ってでも
議席を守りたいとの思惑が見え見えである。
秘書への暴言、暴行疑惑から不倫スキャンダルまで、
テレビのワイドショーを騒がせてきた議員たちの動きも気になる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼応仁の乱が、戦国時代への扉を開いたように、
次期衆院選は歴史の転換点となる選挙になりそうだ。
後世の日本人に「反面教師としたい」と言わせるような、
「失敗の歴史」の繰り返しは許されない。
======================
蛇足)
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応仁の乱の原因
応仁の乱を細かくに見ていくと・・・。
応仁の乱の発端は、当時の有力守護大名の畠山氏と斯波氏などの、家督争いが発端です。
この家督争いに当時の実力者細川勝元と山名宗全がそれぞれの後ろ盾となり抗争に発展、それに将軍の跡継ぎ問題も混ざってしまう事で両者が争う事に・・
幕政の中心にあった二人が争う事になると、それを担う守護大名たちは戦わざる得なくなり、
この内乱は全国の守護大名を巻き込んだ戦いとなります。
当時の将軍は、8代将軍足利義政で、銀閣と東山文化でお馴染みのあの人です。
将軍就任当初の義政は政治に積極的でしたが、度重なる配下や守護大名の対立で政治的混乱が続くために、
隠居志向が強くなってきます。
しだいに茶や能、華道などの日本独自の文化や芸能にのめり込んでいきます。
肝心の幕政は管領の細川勝元と四職家の山名宗全にまかせっきりとなっていき・・
こうして細川・山名両氏は幕府の中心人物となっていきます。
守護大名家の家督争い
1437年頃、各諸大名家の家督争いが絶えませんでした。
その中で三管領家の一つ畠山家が弥三郎と義就で激しい家督争いをしていました。
もともと畠山家の家督は義就が継ぐことで決まっていましたが、
家臣が納得しておらず弥三郎を擁立すべきと主張していました。
そんな畠山家家臣たちの後押しで勝元と宗全は弥三郎を推して、
義就を京へ追い出す事に成功しました。
しかし、この件に対し将軍義政は勝元、宗全両者に被官の処刑を言い渡します。
これに宗全が反発して将軍とそれに従った勝元と対立する事になります。
反発をした宗全は、勝元の嘆願もあって隠居をすることで騒動が決着します。
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しかしこの頃から、宗全は畠山義就派となっていたようで、度々義就の後ろ盾となります。
また、将軍暗殺ため守護職没収されていた赤松氏の再興の件でも両者の激しい対立があり、
その溝がさらに深くなっていきます。
こうして1467年に応仁の乱へと向かっていきます。
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応仁の乱
この乱の戦場は最初は京都を中心に戦っていましたが、
11年にも渡り戦をしていたので、次第に地方へと広まって全国的内乱へ発展していきました。
この戦いの主力は、雇われ農民や浪人などの質のよくない足軽が主流でした。
そのため、かれらは自分の得する方へ寝返ったり、
強奪・焼き討ちなどやり放題の限りを尽くして、
屋敷や重要な寺社仏閣なども焼けてしまい、京の街は焼け野原になりました。
戦況も将軍義政と弟義視の仲がおかしくなり将軍家での東軍西軍が入れ替わってしまい、
誰が誰のために戦っているか分からなくなってきます。
そんなこともあり、幕府の権威がほぼ皆無に等しい状態になっていきます。
また、ほとんどの守護大名が京都へ遠征にきていたため、
国人衆や配下の武将たちが自分たちの勢力を伸ばそうと、下剋上が各地で起きます。
誰のための戦いなのか分からない状態が10年ほど過ぎ、
両軍の大将が相次いでこの世を去ります。
最後まで畠山義就の小競り合いはあったが、
細川・山名両氏の息子により和睦が成立して11年にも及ぶ大乱が幕を下ろす流れとなります。
最終的に、将軍職は義政が推していた義視ではなく、息子である義尚が9代目将軍となりました。
~~~
この応仁の乱で、幕府の権威は失墜して
全国で守護大名の不在時の混乱や下剋上が起きて幕府の手におえない状態になりました。
これにより、戦国時代の幕が上がっていくのです。
====================
最後に…この応仁の乱で得られたものは、
焼け野原になった京の街と動乱の時代、戦国時代への幕開けでした。
”人よむなしい”とはよくいったものです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
太平洋戦争終結後、ある新聞記者が京都の近衛家の(元)公爵にインタビューをしたそうです。
●公爵曰く、『先の大戦では先祖代々の貴重な文章や文化遺産が消失してしまい誠に残念でした』
と言ったそうです。
そこで記者が一言、
●『先の大戦では京都は爆撃されず戦災はなかったのでは?』と質問をしたそうです。
●その公爵曰く、先の大戦とは【応仁の乱】の事で、太平洋戦争ではなかったのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
京都の近衛家にとっては、1467年の応仁の乱での
京都消失がそれくらい大きくて痛い出来事だったのです。
これほどまでに京の街がほぼ全焼したのです。
実際に、現在の京都で見ている寺社仏閣のほとんどは、
応仁の乱以降から江戸時代にかけて再建された建物で、
奈良の寺社仏閣に比べればずっと新しいものなのです。
江戸時代になって応仁の乱以前からの大名はほとんどその名を消して、
島津、細川、伊達、上杉、佐竹くらいしか残っていないそうです。
この応仁の乱以降、
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日本という国は古くからの荘園制度が崩壊して、
守護や地頭もなくなり、日本のシステムが一新されました。
失ったものが大きい事件でしたが、
歴史的ターニングポイントとして重要な出来事だと言われています。
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歴史の解説書としては異例のベストセラーとなった『応仁の乱』(中公新書)読んだ。
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学生時代は、「人(1)の世むな(467)し」と語呂合わせで覚えた大乱は、
全国の諸大名が東西両軍に分かれて争われた。
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コラムには”次期衆院選は歴史の転換点となる選挙になりそうだ”と
▼両軍とも寝返りや内紛が相次ぎ、だらだら11年も続いた。
戦いの不毛さを象徴するようなエピソードがある。
西軍に所属する大名の家臣たちが、ストレス発散のために、
木製の杖(つえ)で木製の鞠を敵陣に打ち込む遊びに興じていた。
その勝敗をめぐってけんかになり、80人もの死傷者が出たという。
~~~~~~~~~~~~
▼英雄が誰一人見当たらない戦乱が、なぜこれほど注目されているのか。
著者の呉座勇一さんは小紙の取材に、こう答えている。
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そんな失敗の歴史を反面教師として学ぶ流れになっているのではないか」。
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▼北朝鮮の「核・ミサイル」の脅威が日に日に高まるなか、
安倍晋三首相は昨日、28日の臨時国会冒頭での衆院解散を表明した。
北朝鮮への圧力を強化して、少子高齢化社会で「生産性革命」を進める
強固な政権を作る。戦いの大義名分は立っている。
▼その大切な戦いを前にして、民進党から離党者が相次いでいる。
自民党からも「小池新党」に参加する動きが出始めた。
新党の理念に賛同するというより、とにかく寝返ってでも
議席を守りたいとの思惑が見え見えである。
秘書への暴言、暴行疑惑から不倫スキャンダルまで、
テレビのワイドショーを騒がせてきた議員たちの動きも気になる。
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▼応仁の乱が、戦国時代への扉を開いたように、
次期衆院選は歴史の転換点となる選挙になりそうだ。
後世の日本人に「反面教師としたい」と言わせるような、
「失敗の歴史」の繰り返しは許されない。
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蛇足)
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応仁の乱の原因
応仁の乱を細かくに見ていくと・・・。
応仁の乱の発端は、当時の有力守護大名の畠山氏と斯波氏などの、家督争いが発端です。
この家督争いに当時の実力者細川勝元と山名宗全がそれぞれの後ろ盾となり抗争に発展、それに将軍の跡継ぎ問題も混ざってしまう事で両者が争う事に・・
幕政の中心にあった二人が争う事になると、それを担う守護大名たちは戦わざる得なくなり、
この内乱は全国の守護大名を巻き込んだ戦いとなります。
当時の将軍は、8代将軍足利義政で、銀閣と東山文化でお馴染みのあの人です。
将軍就任当初の義政は政治に積極的でしたが、度重なる配下や守護大名の対立で政治的混乱が続くために、
隠居志向が強くなってきます。
しだいに茶や能、華道などの日本独自の文化や芸能にのめり込んでいきます。
肝心の幕政は管領の細川勝元と四職家の山名宗全にまかせっきりとなっていき・・
こうして細川・山名両氏は幕府の中心人物となっていきます。
守護大名家の家督争い
1437年頃、各諸大名家の家督争いが絶えませんでした。
その中で三管領家の一つ畠山家が弥三郎と義就で激しい家督争いをしていました。
もともと畠山家の家督は義就が継ぐことで決まっていましたが、
家臣が納得しておらず弥三郎を擁立すべきと主張していました。
そんな畠山家家臣たちの後押しで勝元と宗全は弥三郎を推して、
義就を京へ追い出す事に成功しました。
しかし、この件に対し将軍義政は勝元、宗全両者に被官の処刑を言い渡します。
これに宗全が反発して将軍とそれに従った勝元と対立する事になります。
反発をした宗全は、勝元の嘆願もあって隠居をすることで騒動が決着します。
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しかしこの頃から、宗全は畠山義就派となっていたようで、度々義就の後ろ盾となります。
また、将軍暗殺ため守護職没収されていた赤松氏の再興の件でも両者の激しい対立があり、
その溝がさらに深くなっていきます。
こうして1467年に応仁の乱へと向かっていきます。
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応仁の乱
この乱の戦場は最初は京都を中心に戦っていましたが、
11年にも渡り戦をしていたので、次第に地方へと広まって全国的内乱へ発展していきました。
この戦いの主力は、雇われ農民や浪人などの質のよくない足軽が主流でした。
そのため、かれらは自分の得する方へ寝返ったり、
強奪・焼き討ちなどやり放題の限りを尽くして、
屋敷や重要な寺社仏閣なども焼けてしまい、京の街は焼け野原になりました。
戦況も将軍義政と弟義視の仲がおかしくなり将軍家での東軍西軍が入れ替わってしまい、
誰が誰のために戦っているか分からなくなってきます。
そんなこともあり、幕府の権威がほぼ皆無に等しい状態になっていきます。
また、ほとんどの守護大名が京都へ遠征にきていたため、
国人衆や配下の武将たちが自分たちの勢力を伸ばそうと、下剋上が各地で起きます。
誰のための戦いなのか分からない状態が10年ほど過ぎ、
両軍の大将が相次いでこの世を去ります。
最後まで畠山義就の小競り合いはあったが、
細川・山名両氏の息子により和睦が成立して11年にも及ぶ大乱が幕を下ろす流れとなります。
最終的に、将軍職は義政が推していた義視ではなく、息子である義尚が9代目将軍となりました。
~~~
この応仁の乱で、幕府の権威は失墜して
全国で守護大名の不在時の混乱や下剋上が起きて幕府の手におえない状態になりました。
これにより、戦国時代の幕が上がっていくのです。
====================
最後に…この応仁の乱で得られたものは、
焼け野原になった京の街と動乱の時代、戦国時代への幕開けでした。
”人よむなしい”とはよくいったものです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
太平洋戦争終結後、ある新聞記者が京都の近衛家の(元)公爵にインタビューをしたそうです。
●公爵曰く、『先の大戦では先祖代々の貴重な文章や文化遺産が消失してしまい誠に残念でした』
と言ったそうです。
そこで記者が一言、
●『先の大戦では京都は爆撃されず戦災はなかったのでは?』と質問をしたそうです。
●その公爵曰く、先の大戦とは【応仁の乱】の事で、太平洋戦争ではなかったのです。
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京都の近衛家にとっては、1467年の応仁の乱での
京都消失がそれくらい大きくて痛い出来事だったのです。
これほどまでに京の街がほぼ全焼したのです。
実際に、現在の京都で見ている寺社仏閣のほとんどは、
応仁の乱以降から江戸時代にかけて再建された建物で、
奈良の寺社仏閣に比べればずっと新しいものなのです。
江戸時代になって応仁の乱以前からの大名はほとんどその名を消して、
島津、細川、伊達、上杉、佐竹くらいしか残っていないそうです。
この応仁の乱以降、
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日本という国は古くからの荘園制度が崩壊して、
守護や地頭もなくなり、日本のシステムが一新されました。
失ったものが大きい事件でしたが、
歴史的ターニングポイントとして重要な出来事だと言われています。