7月11日 (水曜日) 晴れ
【産経抄】
「家も財産もすべて流された。
両親も妻子も失った。
嘆き悲しむ者は数を知らず」。
現在の群馬県太田市にある青蓮寺(しょうれんじ)の住職が記した
『寛保洪水記録』の一節である。

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▼江戸中期、徳川吉宗の治世だった寛保2(1742)年に
関東甲信越地方を襲った大水害の被害を記録したものだ。
暴風雨によって、千曲川や利根川、荒川、江戸川で洪水が発生し、
100万都市だった江戸は水没した。
死者は2万人を超えたといわれ、江戸期最悪の水害の一つに数えられる。
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▼西日本を中心とした豪雨による死者は、
12府県で計150人を超えた。
平成で最悪の大水害である。
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1000ミリ超え地点多数
各地で大きな被害が出ている平成30年7月豪雨。
降った雨の量は記録的なものとなりました。
降り始めの6月28日から7月8日までの積算雨量は、
高知県、徳島県、岐阜県、長野県の4県15のアメダス地点で1000ミリを超えました。
全国で最も雨量が多くなったのは高知県安芸郡馬路村魚梁瀬で1852.5ミリ。
これは東京の年間雨量(1528.8ミリ)を超える雨が、
わずか11日間の間に降ったことになります。
=====================
悲しいニュースも・・・
●瀬戸内海に浮かぶ小さな島では、小学生の姉妹が家ごと土砂にのみ込まれた。
300人の島民にとって、宝物のような存在だった。
●「なんでこんな場所におるん」。
広島県熊野町では、婚姻届け出したばかりの妻の遺体の前で、
54歳の男性が泣き崩れた。
▼土砂崩れの現場では、今も安否不明者の捜索が続く。
豪雨とは打って変わって、被災地は厳しい暑さに見舞われている。
避難所では、体調不良を訴える声が上がり始めた。
====================
▼幕府は、江戸の町々の名主に船を出させて救助活動を行った。
町奉行は料理茶屋の経営者に炊き出しの代行を命じた。
もっとも被災者にとって頼りになったのは、
むしろ自らも被災した江戸の人々である。
「施行(せぎょう)」と呼ばれる寄付金や援助物資が続々と届けられた。
食料から衣料や紙まで広範囲にわたる。
三井越後屋(三越の前身)は、金100両分の握り飯を配った。
(『天、一切ヲ流ス』高崎哲郎著)。/

<▼幕府は、被害が小さかった西日本の大名に「手伝い普請」、
つまり被災地の復旧工事を命じた。
今回は、東日本が手を差し伸べる番である。/

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【産経抄】

「家も財産もすべて流された。
両親も妻子も失った。
嘆き悲しむ者は数を知らず」。
現在の群馬県太田市にある青蓮寺(しょうれんじ)の住職が記した
『寛保洪水記録』の一節である。

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▼江戸中期、徳川吉宗の治世だった寛保2(1742)年に
関東甲信越地方を襲った大水害の被害を記録したものだ。
暴風雨によって、千曲川や利根川、荒川、江戸川で洪水が発生し、
100万都市だった江戸は水没した。
死者は2万人を超えたといわれ、江戸期最悪の水害の一つに数えられる。
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▼西日本を中心とした豪雨による死者は、
12府県で計150人を超えた。
平成で最悪の大水害である。
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1000ミリ超え地点多数
各地で大きな被害が出ている平成30年7月豪雨。
降った雨の量は記録的なものとなりました。
降り始めの6月28日から7月8日までの積算雨量は、
高知県、徳島県、岐阜県、長野県の4県15のアメダス地点で1000ミリを超えました。
全国で最も雨量が多くなったのは高知県安芸郡馬路村魚梁瀬で1852.5ミリ。
これは東京の年間雨量(1528.8ミリ)を超える雨が、
わずか11日間の間に降ったことになります。
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悲しいニュースも・・・
●瀬戸内海に浮かぶ小さな島では、小学生の姉妹が家ごと土砂にのみ込まれた。
300人の島民にとって、宝物のような存在だった。
●「なんでこんな場所におるん」。
広島県熊野町では、婚姻届け出したばかりの妻の遺体の前で、
54歳の男性が泣き崩れた。
▼土砂崩れの現場では、今も安否不明者の捜索が続く。
豪雨とは打って変わって、被災地は厳しい暑さに見舞われている。
避難所では、体調不良を訴える声が上がり始めた。
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▼幕府は、江戸の町々の名主に船を出させて救助活動を行った。
町奉行は料理茶屋の経営者に炊き出しの代行を命じた。
もっとも被災者にとって頼りになったのは、
むしろ自らも被災した江戸の人々である。
「施行(せぎょう)」と呼ばれる寄付金や援助物資が続々と届けられた。
食料から衣料や紙まで広範囲にわたる。
三井越後屋(三越の前身)は、金100両分の握り飯を配った。
(『天、一切ヲ流ス』高崎哲郎著)。/

<▼幕府は、被害が小さかった西日本の大名に「手伝い普請」、
つまり被災地の復旧工事を命じた。
今回は、東日本が手を差し伸べる番である。/

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