姫路城の城勤めをしくじった「松岡青羅」は、趣味の俳句がその後の人生を大転換させましたが、その句は平易で解り易いというのが特徴でした。
現在にそれを求めるとしたら「林翔」さんでしょうか。
【林 翔 (ハヤシ ショウ)
大正3年(1914)1月24日、長野市に生まれ、生後十箇月で生母けんに死別。祖母に養われ、五歳で上京し、父豊次と母よしの養育を受けた。国学院大学入学後、同窓の能村登四郎と親交を結び、共に短歌雑誌「装填」の同人となったが、同誌廃刊後、俳句に転じ、昭和15年「馬酔木」に入門。昭和25年度から登四郎と共に「馬酔木」同人となる。昭和45年第一句集『和紙』出版。昭和46年3月、句集『和紙』により第十回俳人協会賞を受ける。・・・現在94歳。 】
どんな句を詠んだのでしょうか。(解釈はkunio_nikkiの独特のものです。その句の持つ意味は、奥深くて本人以外が解釈するのは「おこがましい」のですが、意味を考えるのは読者の感性ですから、許して下さい)
「今日も干す 昨日の色の 唐辛子」(林翔)
(今日も干す唐辛子は、昨日の色と変わらない。しかし、毎日、毎日変化している。同じことの繰り返しに過ぎなくとも、本質的には変化を遂げている)
「石蹴って 石光らしむ 卒業期」(林翔)
(卒業期を迎えている生徒(18歳位かな)が、石を蹴っている様子。光の中を過ぎる時に光を放つように感じる。道端の石ころ(平凡な生徒)が、蹴られるというような出来事(卒業に準えている)で、いつか光り輝く人にとなるのだろう)
平易でありながら、本当に奥深い句という非凡さが、俳句の完成形を思わせます。
現在にそれを求めるとしたら「林翔」さんでしょうか。
【林 翔 (ハヤシ ショウ)
大正3年(1914)1月24日、長野市に生まれ、生後十箇月で生母けんに死別。祖母に養われ、五歳で上京し、父豊次と母よしの養育を受けた。国学院大学入学後、同窓の能村登四郎と親交を結び、共に短歌雑誌「装填」の同人となったが、同誌廃刊後、俳句に転じ、昭和15年「馬酔木」に入門。昭和25年度から登四郎と共に「馬酔木」同人となる。昭和45年第一句集『和紙』出版。昭和46年3月、句集『和紙』により第十回俳人協会賞を受ける。・・・現在94歳。 】
どんな句を詠んだのでしょうか。(解釈はkunio_nikkiの独特のものです。その句の持つ意味は、奥深くて本人以外が解釈するのは「おこがましい」のですが、意味を考えるのは読者の感性ですから、許して下さい)
「今日も干す 昨日の色の 唐辛子」(林翔)
(今日も干す唐辛子は、昨日の色と変わらない。しかし、毎日、毎日変化している。同じことの繰り返しに過ぎなくとも、本質的には変化を遂げている)
「石蹴って 石光らしむ 卒業期」(林翔)
(卒業期を迎えている生徒(18歳位かな)が、石を蹴っている様子。光の中を過ぎる時に光を放つように感じる。道端の石ころ(平凡な生徒)が、蹴られるというような出来事(卒業に準えている)で、いつか光り輝く人にとなるのだろう)
平易でありながら、本当に奥深い句という非凡さが、俳句の完成形を思わせます。