お茶を頂く・・・・。
少しの知識はあっても「お茶」の「たしなみ」なんて皆無です。「一服しますか」と言われても「作法」も知らぬ故、「無作法者」は断ったのですが、茶碗を作ったからとて、緑茶を飲む作法で結構となった。
もちろん、「釜をかける」(茶室で・・・茶会)わけではなく、応接間(居間)で。茶碗の褒め方も解らぬ無作法者は、苦しい苦しい1時間であった。(詳細さえ思い出せない。思い出したくない)
自宅に帰ってから飲む「玄米茶」がおいしかったこと。苫屋でも落ち着くなあ!
苫屋:菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだむしろ。それで和船や家屋を覆って雨露をしのぐのに用いるもので屋根を葺いたことから「粗末な家」の代名詞。
唱歌の「われは海の子」に「煙たなびく苫屋こそ、わが懐かしき住家なれ」とある。
茶の湯の大成者「千利休」は、華美を廃して・・何も削るところがないところに「わび」、「さび」を見たわけですが・・・。「茶室」とはそんなものではありません。とことん計算された「茶室」は、茶室へと続く庭の木々や石さえも・・空気さえも「あるべき」と計算されています。それは、無駄をそぎ落としたというよりも形式美によって威厳をそなえようとしています。それが、「家元」を維持する根源だからでしょう。
苫屋(我が家)で飲む「お茶」が、kunio_nikkiの「茶道」です。
利休が茶道の目指すものとして大好きだった藤原定家の「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(花(おそらく梅)も紅葉も見えない寂しい秋の夕暮れに、苫屋の中から「侘び」とか「寂び」の究極の「美」を見ていたのでしょう。
少しの知識はあっても「お茶」の「たしなみ」なんて皆無です。「一服しますか」と言われても「作法」も知らぬ故、「無作法者」は断ったのですが、茶碗を作ったからとて、緑茶を飲む作法で結構となった。
もちろん、「釜をかける」(茶室で・・・茶会)わけではなく、応接間(居間)で。茶碗の褒め方も解らぬ無作法者は、苦しい苦しい1時間であった。(詳細さえ思い出せない。思い出したくない)
自宅に帰ってから飲む「玄米茶」がおいしかったこと。苫屋でも落ち着くなあ!
苫屋:菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだむしろ。それで和船や家屋を覆って雨露をしのぐのに用いるもので屋根を葺いたことから「粗末な家」の代名詞。
唱歌の「われは海の子」に「煙たなびく苫屋こそ、わが懐かしき住家なれ」とある。
茶の湯の大成者「千利休」は、華美を廃して・・何も削るところがないところに「わび」、「さび」を見たわけですが・・・。「茶室」とはそんなものではありません。とことん計算された「茶室」は、茶室へと続く庭の木々や石さえも・・空気さえも「あるべき」と計算されています。それは、無駄をそぎ落としたというよりも形式美によって威厳をそなえようとしています。それが、「家元」を維持する根源だからでしょう。
苫屋(我が家)で飲む「お茶」が、kunio_nikkiの「茶道」です。
利休が茶道の目指すものとして大好きだった藤原定家の「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(花(おそらく梅)も紅葉も見えない寂しい秋の夕暮れに、苫屋の中から「侘び」とか「寂び」の究極の「美」を見ていたのでしょう。