昨日、河上氏館の記事をアップした時、わたしが最初に行った城館跡がどこだったのか思い出しました。
それが今日紹介する成田氏館です。
たしか、1982年8月2日・・・熊谷が一番暑くなる季節です。
といっても、当時の熊谷はまだ暑さ控えめで、おそらく、32度くらいだったように思います。
しかし、日差しは十分すぎるほど強かった。
当日は、10時ころに家を出て、参考知識もろくに頭に入れないまま、「案内板くらいあるだろう」と、
やみくもに、成田地区方面に自転車で突っ走りました。
成田氏の菩提寺龍淵寺というのがあり、これが、熊谷では見られないような、断崖の上にあり、
周囲は深い川、そして竜の伝説を持つ淵が背後にある、豪快なお寺でしたが、
ここには城跡がないことを知って唖然としました。
寺・神社=城館跡という、漠然とした印象を持っていたのですが、初の城館跡探訪は
早くも暗礁に乗り上げてしまいました。
ここからが、暑かった。
ロクにお金も持たずに家を出た私は水分補給もままならないまま、
炎天下の水田地帯をさまよい続けました。
龍淵寺の周囲をさまようこと2時間。
たまたま、立ち寄った自販機の傍にいたお年寄り(お爺さんだったような気がしますがはっきり思い出せない)
に「成田氏館ってどこでしょうか?」と聞くと、「バイパス渡って向うのほう」って感じで遠くを指さされました。
若干、水分を補給して元気になった私がたどり着いたのは、畜舎と一面の桑畑でした。そこに・・・・。
成田・・・というよりも星宮地区に近いという気がしました。
当時、土塁はありませんでしたが、申し訳程度の深さでしたが水堀が残っていて、それがずっと向うの方に
続いていました。
写真でもおわかりなると思いますが、クワの勢いがものすごかったです。
しかし、水堀の囲んでいる範囲はかなり広いもののように思いました。
恥ずかしい話ですが、写真を撮影した時は、暑さにやられ、かなりもうろうとしていた記憶があります。
この件でも懲りず、同じような見切り発車的突撃による失敗を2度ほど繰り返したあと、
ようやく私は、住宅地図を使って、下調べをするようになったのです。
しかしあの時の暑さ・・・・今だったら確実にぶっ倒れているでしょうね。
それが今日紹介する成田氏館です。
たしか、1982年8月2日・・・熊谷が一番暑くなる季節です。
といっても、当時の熊谷はまだ暑さ控えめで、おそらく、32度くらいだったように思います。
しかし、日差しは十分すぎるほど強かった。
当日は、10時ころに家を出て、参考知識もろくに頭に入れないまま、「案内板くらいあるだろう」と、
やみくもに、成田地区方面に自転車で突っ走りました。
成田氏の菩提寺龍淵寺というのがあり、これが、熊谷では見られないような、断崖の上にあり、
周囲は深い川、そして竜の伝説を持つ淵が背後にある、豪快なお寺でしたが、
ここには城跡がないことを知って唖然としました。
寺・神社=城館跡という、漠然とした印象を持っていたのですが、初の城館跡探訪は
早くも暗礁に乗り上げてしまいました。
ここからが、暑かった。
ロクにお金も持たずに家を出た私は水分補給もままならないまま、
炎天下の水田地帯をさまよい続けました。
龍淵寺の周囲をさまようこと2時間。
たまたま、立ち寄った自販機の傍にいたお年寄り(お爺さんだったような気がしますがはっきり思い出せない)
に「成田氏館ってどこでしょうか?」と聞くと、「バイパス渡って向うのほう」って感じで遠くを指さされました。
若干、水分を補給して元気になった私がたどり着いたのは、畜舎と一面の桑畑でした。そこに・・・・。
成田・・・というよりも星宮地区に近いという気がしました。
当時、土塁はありませんでしたが、申し訳程度の深さでしたが水堀が残っていて、それがずっと向うの方に
続いていました。
写真でもおわかりなると思いますが、クワの勢いがものすごかったです。
しかし、水堀の囲んでいる範囲はかなり広いもののように思いました。
恥ずかしい話ですが、写真を撮影した時は、暑さにやられ、かなりもうろうとしていた記憶があります。
この件でも懲りず、同じような見切り発車的突撃による失敗を2度ほど繰り返したあと、
ようやく私は、住宅地図を使って、下調べをするようになったのです。
しかしあの時の暑さ・・・・今だったら確実にぶっ倒れているでしょうね。