本来、今日アップするはずだった記事が、ミスで昨日あがってしまいましたので、
今日は、源範頼館跡について、最近の様子について書きたいと思います。
源範頼館は、1983年頃に訪ねたと記憶しております。年末の風のない穏やかな日だったのは覚えていますが、
どのようなルートで行ったのか記憶が曖昧です。到着したのは午後3時過ぎだったと思います。
傾いた日が赤く壁を照らしていた記憶があります。
源範頼館付近の水田には、源範頼館とは別の館の、かなり深い水堀跡が水田となって残っていました。
当時の写真については、デジタル化されていないので、2012年7月に撮影したものです。
この写真は甥を釣りに連れて行った帰りに立ち寄った時のもので、あまり十分とは言えませんが・・・。
この館跡は、現在でも非常に比較的よく保存されています。源範頼と言えば、源頼朝と並ぶ歴史上の大物です。
御所という地名が残っており、地元で経緯を集めていたことが推測されます。
初探訪の時、私も有名武将の館跡がよく残っていることに興奮したのを覚えています。
初探訪の頃はこんな石碑はありませんでした。
土塁と空堀です。
息障院の入り口付近の堀はもっとはっきり残っています。
1983年頃は、かなりのやぶ状態で、堀なども観察しにくかったのですが、
現在は手入れがされて見学しやすいと思います。
この近くの山は、豊臣氏による松山城攻城戦の陣が張られていた地域です。
これら地域は、昔の写真だけではなく、再踏査をして、詳しく紹介していきたいと思います。
今日は、源範頼館跡について、最近の様子について書きたいと思います。
源範頼館は、1983年頃に訪ねたと記憶しております。年末の風のない穏やかな日だったのは覚えていますが、
どのようなルートで行ったのか記憶が曖昧です。到着したのは午後3時過ぎだったと思います。
傾いた日が赤く壁を照らしていた記憶があります。
源範頼館付近の水田には、源範頼館とは別の館の、かなり深い水堀跡が水田となって残っていました。
当時の写真については、デジタル化されていないので、2012年7月に撮影したものです。
この写真は甥を釣りに連れて行った帰りに立ち寄った時のもので、あまり十分とは言えませんが・・・。
この館跡は、現在でも非常に比較的よく保存されています。源範頼と言えば、源頼朝と並ぶ歴史上の大物です。
御所という地名が残っており、地元で経緯を集めていたことが推測されます。
初探訪の時、私も有名武将の館跡がよく残っていることに興奮したのを覚えています。
初探訪の頃はこんな石碑はありませんでした。
土塁と空堀です。
息障院の入り口付近の堀はもっとはっきり残っています。
1983年頃は、かなりのやぶ状態で、堀なども観察しにくかったのですが、
現在は手入れがされて見学しやすいと思います。
この近くの山は、豊臣氏による松山城攻城戦の陣が張られていた地域です。
これら地域は、昔の写真だけではなく、再踏査をして、詳しく紹介していきたいと思います。