成田氏熊谷市北東部に懲りた私は、翌日、比較的近場と思われる
奈良、玉井、別府を探訪することにしました。
実は、この日はいやに調子がよく、市の西端の別府から、
正反対にある東端の中条まで走ってしまうことになったのでした。
玉井陣屋は、平安末期に玉井氏が住んだとされている館跡です。
別府氏関係城館跡は目と鼻の先ほどの距離しかありません。
玉井陣屋は玉井寺から大玉井神社の辺りにあったようでした。『埼玉の館城跡』には、
空堀の一部が残存していると記されていたのですが、地元で聞き取り(1982)をしたところ、
「5年くらい前までは、家の軒先位の高い土手が、ずうっと向うの方まで残っていたんだよ」と
指さして教えてくれました。複数の方がそういっていたので、これは事実だと思います。
『埼玉の館城跡』は1968年刊行ですから、調査漏れがあったと考えてよいと思います。
土塁は大玉井神社の鳥居付近、道を挟んで東側にある農家の裏側でした。
おそらくその土塁は玉井寺の裏にかけて続いていたのでしょう。
館の中心はどこだったのかわかりませんでしたが、聞き取りでは「神社の辺りが館の跡だ」と
言うことでした。そこで、神社に向いて写真を撮影いたしました。
その後も、数次訪ねて、痕跡を探しましたが、遺構は見つかりませんでした。
付近には神社が点在し、遺構の残存を期待して訪ねてみましたが、
手入れの及んでいない深いやぶがあって、土塁らしきものはあったものの、
それが、玉井氏の居館とどのような関連を持っていたのかもわからず、
結局、それ以上の探索は断念しました。
今考えれば、70年代後半から80年代前半は、城館跡受難時代の幕開けでした。
私はこの後、「○年前まで残っていたよ」という言葉をさんざん聞かされて、
その度に地団駄踏んで悔しがることになるのでした。
奈良、玉井、別府を探訪することにしました。
実は、この日はいやに調子がよく、市の西端の別府から、
正反対にある東端の中条まで走ってしまうことになったのでした。
玉井陣屋は、平安末期に玉井氏が住んだとされている館跡です。
別府氏関係城館跡は目と鼻の先ほどの距離しかありません。
玉井陣屋は玉井寺から大玉井神社の辺りにあったようでした。『埼玉の館城跡』には、
空堀の一部が残存していると記されていたのですが、地元で聞き取り(1982)をしたところ、
「5年くらい前までは、家の軒先位の高い土手が、ずうっと向うの方まで残っていたんだよ」と
指さして教えてくれました。複数の方がそういっていたので、これは事実だと思います。
『埼玉の館城跡』は1968年刊行ですから、調査漏れがあったと考えてよいと思います。
土塁は大玉井神社の鳥居付近、道を挟んで東側にある農家の裏側でした。
おそらくその土塁は玉井寺の裏にかけて続いていたのでしょう。
館の中心はどこだったのかわかりませんでしたが、聞き取りでは「神社の辺りが館の跡だ」と
言うことでした。そこで、神社に向いて写真を撮影いたしました。
その後も、数次訪ねて、痕跡を探しましたが、遺構は見つかりませんでした。
付近には神社が点在し、遺構の残存を期待して訪ねてみましたが、
手入れの及んでいない深いやぶがあって、土塁らしきものはあったものの、
それが、玉井氏の居館とどのような関連を持っていたのかもわからず、
結局、それ以上の探索は断念しました。
今考えれば、70年代後半から80年代前半は、城館跡受難時代の幕開けでした。
私はこの後、「○年前まで残っていたよ」という言葉をさんざん聞かされて、
その度に地団駄踏んで悔しがることになるのでした。