暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

番外編 正法寺(東松山市)② (2007.02.02)

2017-09-10 22:44:17 | 城館跡探訪
巌殿山正法寺は真言宗智山派の寺院で、地元では「岩殿観音」の名で呼ばれています。

「岩殿観音」の名前の由来は、本堂まで行けばわかります。

さて、昨日見た、長い石段の途中の山門。



巨大な額がかけられています。

隆盛を誇っていた往時の面影が残っていますね。




そして、両側に立つ仁王像。作者は運慶と言われているそうですが。






城めぐりをしていると、地元の古刹を訪ねることも多いのですが、仁王像がピカピカでプラスチック製のように見えて

拍子抜けするような場合があります(かなり)。

これは風格がある方ですね。

この山門を潜り抜けて、一番上に到着です。




張り出した崖の上に鐘楼があります。茅葺きなんですね。



しかし、ご住職もここまで上がってくるのは大変でしょうね。



ここからだと、むかしは松山城まで一望できたでしょうね。

一応、正法寺の解説板です。



そして観音堂です。



冬とはいえ、まだ午後2時くらい。それなのにもう夕方のようです。

なんとなくもの悲しさを感じます。

城郭に行った証拠って皆さんどうしていらっしゃいますか?

2017-09-10 01:09:30 | 城館跡探訪
中学校の頃、城館跡を訪ねた時の証拠とは、即ち、城郭碑、遺構の写真でした。

遺構が全く残っていない場合、少々寂しいものがありましたが、

中坊の浅知恵、それ以上のものは思いつきませんでした。

吉見百穴を訪れた時のことです、売店で販売していた、金井塚良一先生のお書きになられた小冊子を

見た時、遺構を図面に残すということがあるのだと知り、黒岩甌穴群に何度も通いましたが、

当時は適当なテキストも無い時代でしたから、結局、ただただ、映りの良くないカメラのシャッターを切り続けました。

その後は、城郭訪問の証拠は写真ということに落ち着き、遺構を探し撮影する日々でした。


当時、松山城のような大場所は、堀跡も立派で、土塁も素晴らしく、とても一度では踏査できないほど

豊かな内容を持っていました。

これは比企郡の山城を回った経験のある方ならご存じだと思いますが、

比企丘陵の山城とは、今でいうところの里山です。

人々の生活に密接に結びついていました。

正確には大里郡内ですが、現在はゴルフ場になってしまった、江南町柴にあったの上杉氏の城郭は、

今だから言える話ですが、松茸山でした。

だから、わたくしのようなよそから来たガキを地元の皆さんが警戒していました。

ここの場合には、堀跡も確認できましたが、森が深く、松茸狩りの人もいて、

それ以上は奥に入れませんでした。

丘陵地帯の山城になると、当時滅びかけていた養蚕業・・カイコのエサ・・

つまりクワの葉ですが、養蚕は最終シーズンの晩秋蚕になると、桑の枝をそのまま伐採して

蚕に与えるのですが、その残りの枝の束が城跡に廃棄され、空堀を埋め尽くしていたものです。

おのずと空堀の迫力は無くなります。それでも、一生懸命写真に収めていました。


あるとき、一枚の板碑を発見いたしました。

城郭に関する報告書を読んで、拓本というものがあることを知っていた私は、

ひらめきました。次の週、急ごしらえで道具を作り、和紙をもって

近所の人に、板碑の拓本をとらせていただきました。

板碑には、城とはあまり関係のないものも多かったり、許可を得られなかったものもあったり

許可をもらわなければならない人がたくさんいたり、様々なことがありましたが、

それでも、80年代当時は、割合おおらかで、快く拓本を撮らせてくださる方が多かったです。

拓本はモノによっては大型で、ネット上で公開するのも手間になるものがありますが、

城郭に関係するモノだけ、徐々にアップロードしていきたいと思います。


私個人としては、高校生になったころから縄張り図を描きたかったのですが、

知識不足でしたね。

これから、仕事の合間を縫ってそうした事にも徐々にチャレンジしていきたいと考えております。

やはり縄張り図は格好いいと思います。