これは、80年代に訪ねた時の写真ではなく、本年、2017年8月に訪問した際に撮影した写真です。
大河原氏と言えば、平安期から鎌倉期に東秩父村御堂を根拠にした武士で、国宝の名刀を
打たせたことで知られています。
その後、松山城主の上田氏が、松山城を撃退されるたびに、東秩父に逃げ込み、
ここで力を蓄えたことでも知られています。
現在は、館跡には浄蓮寺があります。
浄蓮寺山門をくぐって中に入ると、中は大きな境内になっております。
ここで眼を引くのは、鐘楼で、普通、本堂から離れて、境内に立っているものだと思いがちですが、
ここでは鐘楼が建物の中にあります。
近くで見るとこんな感じです。
もう一枚、望遠で撮影しました。
遺構は堀跡と土塁です。
土塁は、のちに石垣で固められてしまったようですが、その高低差はかなり風格を感じさせます。
今では、水堀の上にコンクリートの蓋がかぶせられて、地元の人が使う通路になっているようです。
東秩父村は自転車移動が主であった私にとっては、かなり遠いところで、1度訪ねた時は途中から雨が降ってしまい
充分に調べることができませんでした。
今後出てくる写真などで、補足記事を書きたいと思います。
大河原氏と言えば、平安期から鎌倉期に東秩父村御堂を根拠にした武士で、国宝の名刀を
打たせたことで知られています。
その後、松山城主の上田氏が、松山城を撃退されるたびに、東秩父に逃げ込み、
ここで力を蓄えたことでも知られています。
現在は、館跡には浄蓮寺があります。
浄蓮寺山門をくぐって中に入ると、中は大きな境内になっております。
ここで眼を引くのは、鐘楼で、普通、本堂から離れて、境内に立っているものだと思いがちですが、
ここでは鐘楼が建物の中にあります。
近くで見るとこんな感じです。
もう一枚、望遠で撮影しました。
遺構は堀跡と土塁です。
土塁は、のちに石垣で固められてしまったようですが、その高低差はかなり風格を感じさせます。
今では、水堀の上にコンクリートの蓋がかぶせられて、地元の人が使う通路になっているようです。
東秩父村は自転車移動が主であった私にとっては、かなり遠いところで、1度訪ねた時は途中から雨が降ってしまい
充分に調べることができませんでした。
今後出てくる写真などで、補足記事を書きたいと思います。