色川大吉は歴史家である。
彼は、「ある昭和史」という著作を残している。彼の故郷は佐原(現:香取市佐原)であり、当時の佐原の様子がうかがえる。
(ふるさと佐原)
「私のふるさとは日本の水郷である。 関東平野を流れる日本の有数の大河利根川が霞ヶ浦、北浦とつながるところ、江戸時代いらい米、味噌、醤油を積んだ船が集散する小さな河港町であった。 日本全図の測量家として名高い伊能忠敬が住んだ。」(36頁)
こう書いているので、佐原であることは間違いないのだが、ここではなぜか「佐原」という地名は本書では表記されない。日本のどこにでもある町という点を強調したかったからであろうか。
(佐原にあった無声映画館)
「私の田舎町には坂本座と松竹館という2館があって新派と時代劇の二本立てで興行していた。」「館内は2階ともマス式畳敷きで座布団一枚2銭、それにラムネとおせんにキャラメルがつきものであった。」(37頁)
坂本座と松竹館という2館の映画館があったという。色川大吉少年が小学生のころは、無声映画全盛の時代であった。今、佐原には映画館はなく、香取市まで広げても映画館はない(佐原市は2006年に小見川町、栗源町、山田町と合合併して香取市となった)。
(昭和初期の不況)
昭和初期の不況は、この時代を省みるにあたっては欠かせない出来事であるが、肌感覚としてなかなか理解しがたい。これは、現代が飽食の時代となってしまったこととも関係しているのだろう。
「アメリカをはじめとする世界的な不況がまだ続いており、日本でも例外でなかった。 特に東北地方のうち続く凶作が農業恐慌に拍車をかけ、多くの貧農家族が飢え、おびただしい数の女子が売られていた。 私のクラスにも弁当を持たない生徒や芸者屋に売られてきた子がいた。」
「1932年、全国で弁当を持たない欠食児童は20万人をこえると言われていたのである。」(42頁)
東北ではおびただしい数の女子が売られていたし、佐原でも芸者屋があって、そこに売られてきた子どもがいたというのである。子どもが売られるという悲惨な描写であるが、見逃してはならないのは、それを買う大人がいたということ。売られたということは、その供給を受け入れる需要があったということである。不況⇒貧困層という図式だけではなく、富の格差が増大したことを念頭に置く必要がある。
(1934年(昭和10年)の利根川氾濫)
「この年の秋の台風シーズンの最後の集中豪雨は1910年(明治43年)以来のものと聞かされた。そのため、9月26日夜から翌日にかけて、利根川は大氾濫をきたし、堤防はいたるる所で決潰、わが佐原町付近で推移は一挙に5 メートル余も上り、川向こうの新島村(十六島)はついに水没した。」(48-49頁)
佐原は水郷なので、水害に苦しめられてきた。1910年にも水害があったが、1934年にも町が水没した。戦後もキティ台風時に水害となった。
色川は水害の様を次のように描写する。
「私の家も半ば水につかって道路は濁流となり、避難民は船を操って山に逃げたり、家をのまれた人は堤防に這い上がって一夜を過ごすことになった。 私はこの一面の褐色の海と化した急流の中を次々と浮かんでは消える家や牛や道具類を見送りながら、忘れていた自然の力というものの恐ろしさをひしひしと感じた。」(同頁)
参考文献
色川大吉『ある昭和史』(中央公論社1975年)