南斗屋のブログ

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色川三中「家事志」文政10年4月中旬

2022年04月21日 | 色川三中
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を記したものです。

【日記】
1827年4月11日(文政10年)
一昨日より持病のため引き籠もっていたが、だいぶ良くなった。
初鰹来、江戸より、一貫500文くらい。
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1827年4月12日(文政10年)
田村惣七なるものが来て、大蛇の歯と称するものを売りにきた。奇物ではあるが、大蛇の歯ではなく竜歯である。竜といってもまことの竜ではなく、竜骨石とでもいうべきもの(注:ナウマン象の化石)。それを説明して納得してもらい、金一両で購入した。
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1827年4月13日(文政10年)
下男の忠七は、9日の夜虫掛(現:土浦市)に行ったまま帰って来ず、10日に人を使っても挨拶もなく人もよこさない。昨日口入した者にも、これ以上使うことはできないと言っておいた。
今日の朝になって請人と共に忠七が詫びを入れに来た。今後は真面目に働くというので、暫く様子を見ることにした。
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1827年4月14日(文政10年)
昨夜は大雨で、川の水が増した。
店には今年燕が巣を造っていない。 
今月の朔日(1日)、今日と、かまどの前の木を切ったところに羽蟻がたくさんいる。数万も這い出て飛散したのではないかと思うほどだ。天気が変わる兆しであろうか。
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1827年4月15日(文政10年)
七つ前時より雷雨、電光、あられ交じりに降った。
向利兵衛殿が分散(私的債務整理)となった。四つ時頃より、財産の売却が始まり、家財の代金が17貫文余り、造作を賃借人会売り渡したのが金4両、瀬戸物など金2両2分、合計9両ばかりとなった。組合のものは分散には金2両2歩もあれば十分であると申していた。
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1827年4月16日(文政10年)
・向利兵衛の分散(私的債務整理)配当に預かるため、与市殿に出向いてもらった。
・先日来様子を見ていた下男の忠七だが、不埒であると言わざるをえないので、仲介者にその旨人を遣わしてその旨伝えた。
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1827年4月17日(文政10年)
九つ時、与市を入江(名主)へ遣わす。先日分散した向殿(叔父)からの譲渡証文に奥印をもらうためである。
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1827年4月18日(文政10年)
高砂屋と中村屋の和議の件。隣家の主人の仲介で、明日には和議の予定。明日の四つ時に和議、その後、組合への振る舞いを八つ時に行う。その旨両名及び組合へ伝えた。
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1827年4月19日(文政10年)その1
高砂屋と中村屋の和議の件。
定刻(四つ時)に高砂屋は来たが、中村屋は来ない。待つこと1時間。ようやく中村屋は来たが、今度は「和談はしない」といいだし、折角まとまりかけた話しを蒸し返す。
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1827年4月19日(文政10年)その2
田中清吉も来て、中村屋にいい聞かせ、九つ時になってようやく和談となった。二階の座敷で酒を酌み交わした。組合への振る舞いは、七つ前からとなり、四つ過ぎに皆帰った。
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1827年4月20日(文政10年)
隣家の主人に昨日の高砂屋と中村屋の和談の礼に行く。昼過ぎより大雨。夜になってもやまず、夜中ようやくやむ。
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【感想等】
・(11日)
三中の体調も良くなったようです。初鰹の便りも聞き、その相場を書き留めています。やはり初鰹は土浦でも人気だったようです。

・(12日)
竜歯(ナウマンゾウの化石)の話しですが、色川三中は、十代に江戸で大坂屋平六という薬種問屋で丁稚奉公し、そこでの物産会(今でいう展示会?)で竜歯が展示されていたことがあって、それを覚えていたそうです(中井信彦著『色川三中の研究 学問と思想篇』)。

・(13日)
忠七がまたやってしまいました。一ヶ月も経たないうちに、またもバックレ。3月23日に行先で飲んだくれて、翌日帰りの失態をしています(過去記事参照)。さすがに三中も我慢ができず、仲介者に解雇を通告せざるを得ませんでした。
忠七には忠七なりの言い分があるのかもしれません。労働基準法もない時代ですから、給料安いとか、休みがないとか、人遣い荒すぎとか。
しかし、連絡もなしのバックレはさすがに当時でもルール違反でしょう。他の従業員の手前、三中が厳しい対応をしたのは当然でしょう。今日は結論を保留としていますが、さてこの労使の緊張関係、どうなりますか…。⇒続きは17日に。

・(14日)
3月下旬には、雨がほとんど降らず渇水が甚だしいとしていた三中ですが、今月は一転大雨による川の増水という天候不順。しかも、いつもどおり燕が来ない、羽蟻の大群といった何やら不吉な兆しも。今は1827年ですが、天保の飢饉の引き金となった冷害(1833年〜)の兆候はこのころからあったのかもしれません。

・(15日)
「分散」は江戸時代の破産制度の一種です。「分散」のほかに「身代限り」という方法もありましたが、前者は債権者・債務者間の契約で奉行所の介入はなく、「身代限り」は奉行所が命じるもの(今でいえば裁判所による強制執行)という点が違います。
「分散」では、債務者が大多数債権者の同意を得て自分の全財産を委ね、債権者はこれを入札売却して、代金を債権額に応じて配分します。
なお、明治になってからも「身代限」「分散」という用語は残っていたようです(華族令15条3号)。
第十五條 華族ノ戶主及第五條第六條ノ禮遇ヲ享クル者 ニシテ左ニ揭クル事項ノ一ニ當ルトキハ其禮遇ヲ停止ス
、二 略
家資分散若クハ破產ノ宣吿ヲ受ケ復權セサル者
又ハ身代限ノ處分ヲ受ケ負債ノ辨償ヲ終ヘサル者
四 以下略

・(16日)
先日来問題行動があり、解雇するぞと通告されていた忠七ですが、やはり「不埒」(解雇)と判断されてしまいました。
普通なら、これで終わりなのですが、忠七はまだまだ騒動を起こします。一週間後(23日)、何かが起こります。

・(17日)
色川三中の叔父、向利兵衛(色川利兵衛)は身持ちが悪く、分散(破産)となりました。奥印というのは名主が行い、公証的役割を果たしていたものです。







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