土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を記したものです。
1827年4月1日(文政10年)
四方八面大乱れで、寸暇も得ることができなかった。朝から隠居が来て、とりや彦兵衛の古証文のことで話しがあったし、江戸崎の件で様々な用を足さなければならなかった。
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1827年4月2日(文政10年)
頭金20両で、後は毎年金20両で8年支払いとしてもらい、利息の8両は負けてもらえることで交渉が成立した。間原らが間に入ってもらえたおかげである。この解決までに3年かかった。
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1827年4月3日(文政10年)その1
先日中村屋の次男源三郎が出奔してしまった。中城の店のものが源三郎を見かけたと言っていたので、捨て置けず早朝から中村屋に与市を遣わしてそのことを伝えた。
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1827年4月3日(文政10年)その2
八つ時(午後2時)頃、中村屋が来られ礼を言いに来た。源三郎は江戸に出ておかめという女と一緒になり、先日土浦に帰ってきてわびを入れてきたので、出入りできるようにしたとのこと。
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1827年4月4日(文政10年)不成日
不成日ではあるが、入夜、色川茂八に中高津の田地4箇所の売却の世話を頼んだ。
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1827年4月5日(文政10年)
・正午、田中清吉来る。飯田屋吉兵衛という者から先年親類が十両を借りていたが、昨日吉兵衛が飯田村(現土浦市飯田)で死去したとのこと。借りた金についてのトラブルが生じたことでの相談だった。
・矢口嘉兵衛の女房は先だって死去した。八歳の女の子といつも連れ立っているのを見る。彼らの艱難はいかばかりぞや。
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1827年4月6日(文政10年)
次の田地を永代譲渡し、「親類立合議定一札之事」という書面を作成し渡した。
・遠上六右衛門前の下田 6畝20歩
・小山権之丞前の下田 2反6畝16歩
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1827年4月7日(文政10年)
・雨止まず。蚕が生まれ、はじめて桑の葉をあげる。
・八つ(午後2時)過ぎ頃、木下庄右衛門殿がお出でになり、持合金のことを話していかれた。今日の寄合いの席でそのような話が出たと見える。
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1827年4月8日(文政10年)
人が来て、惣代の寄合いがあることを伝えてきたが、病気と称して参加しなかった。持合金を出してほしいという件での寄合いだったからである。
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1827年4月9日(文政10年)
持病が出たため引籠る。
四つ(午前10時)前ころ、入江より用があるということであったので、佐助を遣わした。 是非面談して内談したいことがあるという。病気ではあったが、晩においでいただくよう申し遣わした。
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1827年4月10日(文政10年)
昨夜、入江(名主)に大鯛一枚(400文)を用意して遣わした。
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【感想等】
・(3日)
日記の舞台は1820年代の土浦ですが、結構頻繁に江戸を行き来する人がいるので、この時代にはもう江戸はそう遠いところではなかったのかもしれません。とはいえ、色川三中自身は江戸に行かずに人生を終えており、一度も行かなかった人もかなりの人数に上るのでしょう。
・(4日)
不成日は、不成就日ともいい、何事も成就しない日とされていて、あらゆることが凶とされる日です。このようなことから、田地の売却の依頼は本来はわ行いたくなかったのでしょう。
・(5日)
妻と死別し、父子家庭となった親子。「いつも連れ立っている」というので、父側の家のバックアップが期待できないのでしょうか。原文にもこの程度の記載しかないので、詳細は不明です。
・(6日)
江戸幕府は、田畑永代売買禁止令を1643年に出し、本田畑の売買を禁止し、違反者は売買両者とも重罪に処されたことが、質流れや書入 (抵当契約)などの形で事実上破られたとされています。この日記にも「永代売買」と書かれているので、禁止令が形骸化していたことが窺えます。
・(7日)
旧暦4月(太陽暦では5月)の蚕についての記載(高根沢町史 民俗編)。
「ハルゴ(春蚕)は五月初旬にハキタテし、六月下旬には繭の出荷となる。」「春蚕の時は、蚕の餌となる桑は畑で切って枝ごと与えられた。この時期は田植えとちょうど重なり大変忙しい時期でもあった。」
「ハキタテ(掃き立て)とは、蚕の卵が産み付けられている種紙から、生まれたばかりのケゴ(毛蚕)を蚕座紙に掃き落とす作業のことで、養蚕における最初の節目の作業である。」
・(7日、8日)
持合金のことが日記の話題になっています。持合金というのは、各々が町のために拠出して、その拠出金を困窮者に貸し出す等していたようです。天保期の土浦町では、持合金が不正に利用されたとの糾弾が契機となり、土浦藩奉行所を巻き込む持合金騒動というものが起こったそうです。
・(10日)
4月9日に色川三中は病気で外に出かけられなかったため、名主の入江にお出でを願ったこと、その他いろいろお世話になっていることからの贈り物でしょうか。なお、名主であっても幼なじみだからか、「入江」と常に呼び捨てにしています。