幕開け前から目に入るのは舞台セット。
シンプルだが、イタリアの古い館を連想させる作りで美しい。傾斜したロの字形のセットは、噴水、講義室、個人の部屋、タクシーの中、と場面に合わせて変幻自在だ。
そのシンプルな舞台で、じつに説得力のある演技が繰り広げられた「セミナー」
「もし死ぬとしたら、フィレンツェがいい」
冒頭、暗闇の中で淡いスポットライトを受けて、しげが演じるローレンが呟く。顔のない白い人形に手をかけ、「こいつは俺」といって、いま自分は死に掛けているのだと、まるで人事のように語る。
心配して集まってきたセミナーハウスの仲間たちに皮肉な視線を向け、「俺のまわりはみんな馬鹿ばかりだ」嘲笑するような言葉を吐くローレンの言葉。なぜ、自分が死に掛けているのか、そこで舞台は過去にさかのぼる。
この冒頭のシーンが後半ラストのシーンにつながっていくのだが、主役の「死」という、謎解き要素も含む始まりは、なかなかインパクトに富んでいる。
教授の講義を、黙ってPCでノートをとるだけの学生。講義中に鳴り響く携帯電話の音。舞台上にいるのは、日本にも普通にいる若者の姿。
その中で、ただ一人、PCも携帯も持たず、他の生徒たちの態度に怒りを顕にし激昂するローレンは実に異質な存在だ。今風に言うと「めんどくさい」人種。素直になったかと思うと、すぐに手のひらを返して、相手を挑発するような態度をとったりする。そして、一人ひとりに対しては、意識してなのか、それとも無意識なのか、まったく異なる態度で接するローレン。
しげは、演出家の鈴木勝秀氏に「6人との関係性を全部違う人のように演じてほしい」と言われたというが、それは下手をすると、ローレンはただの多重人格者と思われてもおかしくない、かなりの難役だ。
が、しげのローレンは、どんなシーンでも、誰と一緒のシーンでも、一人のローレンだった。役が役ではなく、一人の生きている人物として、リアリティをもって舞台の上に存在していた。それは、ベストキャスティングなどという、ありきたりな表現で説明できるものではなく、ローレンがしげであり、しげがローレンであると、観る側に錯覚を起こさせるほどのリアリティだった。
様々な顔を見せ、同じセミナー仲間を翻弄し、しかしそれぞれに何かしらの影響を与えていくローレン。
自分勝手な生徒たちの姿に目をつぶっていた教師グレチェンは、ローレンの言葉に触発され、生徒たちに講義でのPCの使用や携帯の持込を禁止させる。
ハンナは、ローレンの発言を正論だと共感しながら、彼の中にある陰の部分を知り、婚約者がいるにも関わらず、いつしか惹かれていく。
恋人パトリックと一緒に参加していた敬虔なカトリック信者のミッシーも、ローレンの知性とパトリックとは違う優しさに心を許し、パトリックを裏切る行為を犯してしまう。
勉強は2の次、3の次で、パーティーとイタリア男とのSEXに明け暮れるテスは、ローレンの巧みな説得と指導によって学ぶことの面白さに目覚めていく。
しかし影響を受けるのはセミナーの仲間だけではない。SEX以外は人との関わりを嫌うローレンもまた、否応無しに仲間と関わっていくことになる。
厳格な父親の影に怯え、睡眠薬と精神安定剤におぼれるジェイソンの中に、同じように暴君の父親を持つローレンは、薬を取り上げ、眠れないという彼をそのままに出来ず、眠りにつくまで付き添う。
自分とパトリックとの板ばさみになってしまったミッシーを庇いながら、しかし、それ以上は彼女に何もしてあげられず、一人立ちすくむ。
やがて、自らの行為が思わぬ波紋を呼び、仲間との間に決定的な亀裂を生じさせ、精神的に追い詰められていくローレン。自分の考えは正しい、なのに誰もそれを理解できない。
「あんな馬鹿な奴らの世の中に、俺は生きていたくない」
自らの「生」を拒否する強烈な台詞だ。リー・カルチェイム氏は、ローレンの台詞を借りながら、改革を望みながら、しかし自らは何も動こうとしない今の人々を、その甘えを、痛切に批判しているといっていい。
そして、ハンナを相手に、母親が自殺したときのことを涙をとめどなく流しながら、秘めてきた感情を爆発させてローレンが語る場面の、しげの迫真の演技に目は釘付けとなる。
ハンナに諭され、みんなの前で頭を下げるローレン。
「でも、携帯は認められない」・・・たとえ謝罪しても揺るがない自らの信念を貫こうとするその一言。客席に背中を向け、仲間の冷たい視線を受けながら孤独に立つその姿は、まるで宗教裁判における異端審問のよう。
謝罪したのに許されない。ローレンを襲う容赦のない孤独感。自らの矜持までも失ったローレンの絶望感が、ただ背中を向けて立ちすくんでいるだけなのに、痛いほどに強く伝わってくる。
吹き上げる噴水の行方を呆然と見つめ、手をかざし、全身濡れるがままに任せる。隠し持っていたジェイソンの睡眠薬を何かにとりつかれたように次々と口の中に運ぶローレン。最初は涙を流しながら、やがて時折笑みのような表情を浮かべながら、口の中いっぱいに詰め込んだ錠剤を口元からこぼしながら。
そして、ローレンが無意識に選んだ「死」という絶望的な結論を呆然と見守るしかない観客の前で、舞台の冒頭で見たシーンが再び展開される。
が、みんなの台詞はまったく同じだというのに、そこに至るまでの舞台裏を知っているせいで、違って見えてくるから不思議だ。もちろん、水の中のローレンが、人形と生身の人間という違いもあるだろう。しかし、ローレンを必死に助けようとするみんなの姿に「救い」を感じるのだ。「人の死」を目の前にして、無関心でいられる人などいない。
死の淵から、まるで神の導きのように生き返ったローレンは、遠い祖先にあたるメディチ家のロレンツォのように、自らの内にルネサンス(再生)の改革を起こし、希望がないと自ら言った未来を、自分自身が変えていく原動力となっていくのではないか、ラスト、静かに立ち上がり、希望の光をその瞳に宿したローレンを見ていると、そんな予感に包まれる。
「もし、死ぬとしたらフィレンツェがいい」
まったく同じ台詞なのに、舞台の最初と最後では響きがまったく異なる。くしくも舞台の中にこんな台詞がある、「何を言うか、じゃなくて、どう言うかでしょ」
この舞台の解釈は観る人によっていろいろあるだろう。これが正しいとか、これが伝えたいテーマだとか、決まった答えを出す必要はない。それでいいのだと思う。
ルネサンスには、「こうでなければならない」決まりごとなど、ない。
それにしても、ファンでもびっくりするほど、この舞台のしげは強烈なオーラを放っていた。どうしちゃったの?と思うくらい。たまらなく嬉しかったけど。もちろん、しげだけじゃなく、共演者たちも負けずに素晴らしい演技を見せてくれて、本当に何度見ても飽きることがなかった。観るほどにハマっていった舞台だった。
日本上演がワールド・プレミアだったわけだから、ぜひ、リー・カルチェイム氏のホームであるニューヨークで、このオリジナルメンバーで上演してほしいと願ってやまない。
シンプルだが、イタリアの古い館を連想させる作りで美しい。傾斜したロの字形のセットは、噴水、講義室、個人の部屋、タクシーの中、と場面に合わせて変幻自在だ。
そのシンプルな舞台で、じつに説得力のある演技が繰り広げられた「セミナー」
「もし死ぬとしたら、フィレンツェがいい」
冒頭、暗闇の中で淡いスポットライトを受けて、しげが演じるローレンが呟く。顔のない白い人形に手をかけ、「こいつは俺」といって、いま自分は死に掛けているのだと、まるで人事のように語る。
心配して集まってきたセミナーハウスの仲間たちに皮肉な視線を向け、「俺のまわりはみんな馬鹿ばかりだ」嘲笑するような言葉を吐くローレンの言葉。なぜ、自分が死に掛けているのか、そこで舞台は過去にさかのぼる。
この冒頭のシーンが後半ラストのシーンにつながっていくのだが、主役の「死」という、謎解き要素も含む始まりは、なかなかインパクトに富んでいる。
教授の講義を、黙ってPCでノートをとるだけの学生。講義中に鳴り響く携帯電話の音。舞台上にいるのは、日本にも普通にいる若者の姿。
その中で、ただ一人、PCも携帯も持たず、他の生徒たちの態度に怒りを顕にし激昂するローレンは実に異質な存在だ。今風に言うと「めんどくさい」人種。素直になったかと思うと、すぐに手のひらを返して、相手を挑発するような態度をとったりする。そして、一人ひとりに対しては、意識してなのか、それとも無意識なのか、まったく異なる態度で接するローレン。
しげは、演出家の鈴木勝秀氏に「6人との関係性を全部違う人のように演じてほしい」と言われたというが、それは下手をすると、ローレンはただの多重人格者と思われてもおかしくない、かなりの難役だ。
が、しげのローレンは、どんなシーンでも、誰と一緒のシーンでも、一人のローレンだった。役が役ではなく、一人の生きている人物として、リアリティをもって舞台の上に存在していた。それは、ベストキャスティングなどという、ありきたりな表現で説明できるものではなく、ローレンがしげであり、しげがローレンであると、観る側に錯覚を起こさせるほどのリアリティだった。
様々な顔を見せ、同じセミナー仲間を翻弄し、しかしそれぞれに何かしらの影響を与えていくローレン。
自分勝手な生徒たちの姿に目をつぶっていた教師グレチェンは、ローレンの言葉に触発され、生徒たちに講義でのPCの使用や携帯の持込を禁止させる。
ハンナは、ローレンの発言を正論だと共感しながら、彼の中にある陰の部分を知り、婚約者がいるにも関わらず、いつしか惹かれていく。
恋人パトリックと一緒に参加していた敬虔なカトリック信者のミッシーも、ローレンの知性とパトリックとは違う優しさに心を許し、パトリックを裏切る行為を犯してしまう。
勉強は2の次、3の次で、パーティーとイタリア男とのSEXに明け暮れるテスは、ローレンの巧みな説得と指導によって学ぶことの面白さに目覚めていく。
しかし影響を受けるのはセミナーの仲間だけではない。SEX以外は人との関わりを嫌うローレンもまた、否応無しに仲間と関わっていくことになる。
厳格な父親の影に怯え、睡眠薬と精神安定剤におぼれるジェイソンの中に、同じように暴君の父親を持つローレンは、薬を取り上げ、眠れないという彼をそのままに出来ず、眠りにつくまで付き添う。
自分とパトリックとの板ばさみになってしまったミッシーを庇いながら、しかし、それ以上は彼女に何もしてあげられず、一人立ちすくむ。
やがて、自らの行為が思わぬ波紋を呼び、仲間との間に決定的な亀裂を生じさせ、精神的に追い詰められていくローレン。自分の考えは正しい、なのに誰もそれを理解できない。
「あんな馬鹿な奴らの世の中に、俺は生きていたくない」
自らの「生」を拒否する強烈な台詞だ。リー・カルチェイム氏は、ローレンの台詞を借りながら、改革を望みながら、しかし自らは何も動こうとしない今の人々を、その甘えを、痛切に批判しているといっていい。
そして、ハンナを相手に、母親が自殺したときのことを涙をとめどなく流しながら、秘めてきた感情を爆発させてローレンが語る場面の、しげの迫真の演技に目は釘付けとなる。
ハンナに諭され、みんなの前で頭を下げるローレン。
「でも、携帯は認められない」・・・たとえ謝罪しても揺るがない自らの信念を貫こうとするその一言。客席に背中を向け、仲間の冷たい視線を受けながら孤独に立つその姿は、まるで宗教裁判における異端審問のよう。
謝罪したのに許されない。ローレンを襲う容赦のない孤独感。自らの矜持までも失ったローレンの絶望感が、ただ背中を向けて立ちすくんでいるだけなのに、痛いほどに強く伝わってくる。
吹き上げる噴水の行方を呆然と見つめ、手をかざし、全身濡れるがままに任せる。隠し持っていたジェイソンの睡眠薬を何かにとりつかれたように次々と口の中に運ぶローレン。最初は涙を流しながら、やがて時折笑みのような表情を浮かべながら、口の中いっぱいに詰め込んだ錠剤を口元からこぼしながら。
そして、ローレンが無意識に選んだ「死」という絶望的な結論を呆然と見守るしかない観客の前で、舞台の冒頭で見たシーンが再び展開される。
が、みんなの台詞はまったく同じだというのに、そこに至るまでの舞台裏を知っているせいで、違って見えてくるから不思議だ。もちろん、水の中のローレンが、人形と生身の人間という違いもあるだろう。しかし、ローレンを必死に助けようとするみんなの姿に「救い」を感じるのだ。「人の死」を目の前にして、無関心でいられる人などいない。
死の淵から、まるで神の導きのように生き返ったローレンは、遠い祖先にあたるメディチ家のロレンツォのように、自らの内にルネサンス(再生)の改革を起こし、希望がないと自ら言った未来を、自分自身が変えていく原動力となっていくのではないか、ラスト、静かに立ち上がり、希望の光をその瞳に宿したローレンを見ていると、そんな予感に包まれる。
「もし、死ぬとしたらフィレンツェがいい」
まったく同じ台詞なのに、舞台の最初と最後では響きがまったく異なる。くしくも舞台の中にこんな台詞がある、「何を言うか、じゃなくて、どう言うかでしょ」
この舞台の解釈は観る人によっていろいろあるだろう。これが正しいとか、これが伝えたいテーマだとか、決まった答えを出す必要はない。それでいいのだと思う。
ルネサンスには、「こうでなければならない」決まりごとなど、ない。
それにしても、ファンでもびっくりするほど、この舞台のしげは強烈なオーラを放っていた。どうしちゃったの?と思うくらい。たまらなく嬉しかったけど。もちろん、しげだけじゃなく、共演者たちも負けずに素晴らしい演技を見せてくれて、本当に何度見ても飽きることがなかった。観るほどにハマっていった舞台だった。
日本上演がワールド・プレミアだったわけだから、ぜひ、リー・カルチェイム氏のホームであるニューヨークで、このオリジナルメンバーで上演してほしいと願ってやまない。