グラスの中でゆっくりと溶けていた氷が、お互い譲り合うようにずれて、からんと小さな音を立てる。
その音で、私はルネッサンス時代のイタリアから一時的に引き戻された。
ソファーの上で、膝を抱えるようにずっと座っていたせいだろうか、曲げていた膝の後ろが汗ばんでいる。
私は、読んでいた本の間に栞代わりに人差し指を挟むと、リビングテーブルの上で、こちらも汗をかきながら水溜まりを作っているグラスに手を伸ばした。
鮮やかなルビー色から薄紅色に変わり始めているカクテルサワーは、アルコールも薄まっていそうだ。
グラスの底からポタポタ垂れる水滴が、本にかからないよう気をつけながら、唇にグラスの縁を寄せた時、玄関の鍵を回す音が聞こえた。
暑さよけにしている遮光カーテンのせいで外の様子は判然としないが、もしかするとかなり時間が経っているのかもしれない。
と思って時計を見たら、まだ午後3時を回ったばかり。
「外と比べたらやっぱ涼しいなあ、ここは」
大きなスイカを手にぶら下げて、彼が入ってきた途端、わずかに残っていたルネッサンスの余韻も吹き飛んだ。
「なにそれ」
私の言葉に、彼が本当に驚いた顔をした。
「おまえ、スイカ知らんのか?!」
ああ、ああ、そっちにいっちゃいましたか。
「スイカくらい知ってます。私が聞いたのは、外と比べたら涼しいってどういう意味ってこと。冷房つけてるんだから涼しいに決まってるでしょ」
「おまえ、設定温度28℃にしとるやろ。ずっとおると暑く感じんねん」
「設定温度28℃のメリットその1、冷房病と無縁。その2、エネルギーの節約。その3、冷えたスイカが美味しく食べられる」
「何の広告やねん。なあ、冷蔵庫にこれ入る?」
「うーん…昨日、実家からいろいろ送ってきたから…」
冷蔵庫の野菜室を開けてみれば、野菜と果物が所狭しと入っている。
「プップー満員でーす。ご乗車できません」
「…なんやそれ。ヤスよりヒドいな。全然おもんないで」
「別におもしろいこと言ったつもりないし」
私はスイカを指差した。
「それ今日食べる?」
「当たり前やろ。このボロクソに暑い中、持ってきたんやで」
スイカは氷水をたっぷり張ったたらいの中で、しばらく入浴させておくことにした。
1時間も置けば十分冷えるはず。冷房もそれなりに効いている…と思う。
グラスの中身を、今朝作ったばかりの冷えたサングリアに入れ替えて、彼の分と一緒にテーブルに置いた。
再びソファーの上で、15世紀のイタリアにワープしようとした私の横に彼が来て座った。
「何読んでんの?」
と、体をかがめて本の背表紙を見て、私が答える前にタイトルを読み上げる。
「チ…チェーザレ・ボルジア、あるいは…」
「あるいは優雅なる冷酷」
彼がぽってりした唇を尖らせて私を見た。
「俺かて優雅と冷酷くらい読めるわ」
そう言って、本を覗き込んでくる彼の顔があまりに近すぎる。
「その本おもろい?」
声も耳元で聞こえて、私は集中力を失った。
イタリア統一を目指す強烈な個性の美しい若者より、どうしても気持ちが彼に行ってしまう。
仕方ない。こっちの相手をしようと私は彼の方を向いた。
「面白いよ。イタリア版織田信長の話なの」
「織田信長、カッコエエやん。なに?それ日本人の話なん?」
思わず吹き出しかけた。
「そういう意味じゃなくって、このチェーザレ・ボルジアって人が織田信長によく例えられるの。彼の生き方とか物事のやり方とか」
「あっなるほど、織田信長に似てるイタリア人ってことか。イタリアの人ってオシャレやもんな、そいつもカッコエエんやろ?」
そう言いながら、彼の関心はテーブルの上に積んである本に移ったらしい。
置いてある本を1冊ずつ手にしてはタイトルを眺めている。
「これ、全部読んだん?」
「うん」
「マジで?すごいな」
「朝から読書マラソンしてたの」
「読書マラソン?なにそれ、初めて聞いた」
「うん。だって私が勝手に作った言葉だもん」
「それ途中参加してもかまへん?俺も何か読みたい。どれオススメ?」
と、手にした数冊の本を、ソファーの上で私との間にトランプのように広げて並べた。
なんだか読んでほしい絵本を並べて親にせがんでる子供みたい…
本人にしてみればなんてことはない行動なのだろうけど、見ているとたまらなく愛しくなる。
彼を抱きしめたい気持ちを抑えて、私は「これとこれ」と、作家が違う2冊のエッセイ本を指差した。
「面白いん?」
「こっちはスタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫さんの書いた本。こっちの本書いたのは大阪のおばちゃん。たぶん、どっちとも通じる感覚あるんじゃないかな」
「ふうん。で、どっち先がええ?」
鈴木さんのは貸したげるから、こっち先に読めば?と、私は大阪のおばちゃん…もとい、詩人、茨木のり子のエッセイ集を渡した。
同じソファーに並んで座りながら、それぞれお互いに違う世界へと入っていく。
静かに過ぎゆく時間の中で、時を刻む時計の秒針と本のページを捲る微かな音だけが響いていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
遮光カーテンの隙間から部屋に差し込む光の細い帯が、橙色の強さを増しながら長く伸びてきていることに気がついた。
スイカを冷やしていたことを思い出して立ち上がろうとしたら、彼が私の脇腹を小突いた。
「な、これ、そうなん?」
「何が?」
彼が指で挟んでいたらしい本のとあるページを広げて見せた。
「ここ」
そのページを見た途端、彼が何を聞きたいのかわかった。
私もそこを読んだ時に、ちょっと気持ちがソワソワと落ち着かなくなったからだ。
作家、金子光晴氏のことを書いた『女へのまなざし』という章の一文。
いい年をした家政婦が、ドリフターズのいかりや長介に夢中なのが腑に落ちない金子氏。
奥さんにその謎を尋ねた時の奥さんの答えが…
『…あなたその年になってもまだ女がわからないの?古今東西、女は有名人好きに決まってるじゃありませんか…』
「さっき聞こうと思ってんけど、おまえ、めっちゃ本読んどったし…」
私はわざとゆっくりそのページを眺めて、「で?何が?」と聞き返した。
「これって、やっぱそうなん?」
「どう思う?」
「どう思うて、俺がおまえに聞いてんねん」
「私?」肩をすくめた。「あなたみたいな有名人と付き合ってるからそうなんじゃない」
「俺、有名人ちゃうよ」
「立派な有名人でしょ」
「え、なに、じゃあ、だから俺と付き合うてんの?」
ヤレヤレ。
私はわざと大きな溜め息をついてから言った。
「もしホンマにそうやったら、私、嵐のメンバーと付き合います」
俺、嵐と同期なのに出遅れてるよなあとボヤキ始めた彼の声を背に受けながら、私はキッチンに立って、スイカの様子を見てみた。
たらいの中で氷山のように浮いていた氷はほとんど溶けていたが、スイカはほどよく冷えている。
「なあ、俺も年取ってエロ爺さんになったら、めっちゃ人気出るんかな」
「それやったら、どっちか言うと、エロ爺さんになる素質があるのは、すばるの方だと思う」
「あーっ、そやな。たしかにすばるには負けるな」
私はスイカをたらいから、持ち上げた。
冷たくて気持ちいい。
どこかの動物園の白クマが、氷の塊を抱いてる映像を見たことがあるけれど、あんな感じでこのスイカを胸に抱え込みたい。
その衝動を我慢して、スイカをまな板の上に置いた。
かなり大きくて、2人で1回だけでは食べきれそうにない。
「ねえ」
「おん?」
彼を見るとまた読書に戻っている。
漫画以外の本を読んでいる彼の姿はちょっとした見ものだった。
「今日はどうすんの?」
家に帰るのか、ここに泊まるのか、聞くときの決まり文句。
「おるよ」
泊まって行くときの、いつもの答えが返ってきた。
じゃあ、スイカの半分は明日に回すことにしよっと。
大きさにちょっと手こずりながら切っていると、もともと2日分のつもりで、こんな大きなスイカを買ってきたのかも、と気づいた。
半分に分けても、まだスイカは大きかった。
食べやすいように切り分けたのを大皿に載せて、リビングのテーブルに持っていった。
すると、彼が待ち構えていたように私のキャミソールの裾を引っ張って、なあこれ、めっちゃええよ、と天使のように無邪気な顔で私を見上げる。
たあいもない仕草。
たあいもない会話。
たあいもない、いろんなこと。
彼と私の間をいつも行き交うのは、ほとんどが、たあいもないことだったりする。
そんなたあいもないことが、幸せはありきたりな日常にあるのだと、そっと教えてくれている。
「ほら、この詩…」
彼が開いた本のページを片手で伏せて、私は、たあいもないキスを、彼に、した。
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前回に続いて、またまた夏のお話です。
この短編、じつは前回の短編からの続き、さりげなく連載、になってます(笑)
というのも、前から書き下ろしてある作品が手元にあるんですけど、キュンキュン度がやたらと低い話で
それで、まず二人だけの世界で楽しそうな作品を書いて、序章みたいにしました。
前回の作品は、最初は独立した短編のつもりで書いてたのを途中で変更。
タイトルを序章『Prologue』としました。
そして今回の『summer time』を本編に繋がる導入部として、連載じゃないんだけれど、ひと続きのシリーズ作品みたいにしようかと。
ということで、次回から本編です。お楽しみに。