< 第1話 >
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バリ島の山間部にあるウブドは、バリの伝統芸能と文化、芸術の発信地として、昔から内外の芸術家たちが居住、滞在してきた。それ故だろうか、ウブドには街そのものにアーティスティックな雰囲気が漂う。
近年は、お洒落なショップやブティック、レストラン、そして密林の中にひっそりと佇む隠れ家的な高級ヴィラが次々とオープンして、垢抜けたビーチリゾートに飽きてきた旅行客からの評価も高い。
長閑な田園地帯で、山の傾斜地や渓谷に作られた棚田『ライステラス』に、蒼蒼とした稲穂が風に揺れる光景は、この地を代表する美観だ。
夕刻、サヌールのホテルを出発して約1時間、タクシーがウブドの街に入った頃には、空は暗紫色に染まり、漆黒に近い闇の中では、美しい田園風景を臨むことは叶わなかった。
今夜、彼がリザーブした店は、ウブドにオープンして以来、欧米の旅行客を中心に人気を博しているフランス料理店だった。パリやニューヨークの最新レストランのように洗練された店内は、バリ島の他の高級レストラン同様、冷房がとてもよく効いている。
エアコンの効いたインドアダイニングを抜けると、熱帯の木々に囲まれ、頭上には星空が瞬くオープンエアのガーデンダイニングがある。
庭の間接照明とテーブルに置かれたキャンドルの灯りに照らされ、ルビー色に輝くワイングラスに手を伸ばした時、羽織っていたストールが肩から滑り落ちた。
「そうか。明後日にはジャワに飛ぶのか」
ちょうどメインディッシュが運ばれてきたところだった。目の前に置かれた料理は、どこからナイフを入れようか迷ってしまうほど美しくアレンジされている。
「それなら、ジョグ・ジャで会おうと思えば会えたかもしれないな」
「もしかして時間ないのに無理させちゃった?」
私はストールを肩に掛け直しながら、申し訳ない気持ちで聞いた。
「いや、ジャカルタとジョグ・ジャは離れてるし、実際会えるかどうかはわからないから」
空になった彼のグラスにワインが注がれる。
「アマンジヲか。君は昔から憧れてたもんな」
「後からくる請求が怖いけど、ワクワク感の方が今のところ勝ってる」
私は思いきって、皿の上のラム肉にナイフを入れた。
「帰ったらまた頑張って働かなくちゃ」
「なんか意外だな」
「何が?」
顔を上げて彼を見ると、食事の手を止め、楽しそうな表情で私を見ている。
「俺はね、君はとっくの昔に結婚して、仕事も辞めて、専業主婦になってるものだと思ってた」
「ちょっと待って、昔の私ってそんなイメージだったの?」
「イメージというか、君は自分の人生プランをしっかり設計して、そのプラン通りに着実に歩いていくタイプだと思ってた」
私は心の中で失笑した。プラン通りの人生どころか、遠回りの人生を歩きっぱなしだけど。
「でも、予想が外れてて嬉しいよ」
思いもしなかった言葉に、思わず彼の顔を見た。嬉しいとはどういう意味だろう。
彼の真意をはかりかねて、私は曖昧な笑みを返すだけにした。
「で、これからの君の人生プランは?まさか仕事に人生賭けてますってわけじゃないだろ?」
人生プラン?
仕事でのキャリアは、将来的に思い描いているイメージがないわけじゃない。
自分の仕事の未来像はある。
じゃあ、仕事以外は?自分自身の人生は?
それをどうかと問われても、今まであまり考えたことがなかったかもしれない。
だから、不倫などという先の見えない恋愛を3年も続けられた。でも今は…
そのとき初めて気がついた。いや、気づいてしまった。
先が見えないのは今も同じ。
アイドルの彼と一般人の私。
住む世界が違う私たちの恋のレールは、いったいどこへ向かっているんだろう。
それに答えてくれるただ一人の人は、今ここにはいない。
「…わかんない。ここ数年は仕事に追われてて、仕事以外のこと、あまり考えてなかったから」
無難な嘘でごまかした。
「なるほどね。いまの仕事は楽しい?」
「そうね、総じて楽しいかな。もちろん楽しいだけじゃないけど」
まあ仕事なんてそんなもんだよな、と彼はステーキを口に運びながら頷いた。
「人生が自分の狙い通りにいかないことを嫌ってほど思い知らされたよ。社会は学生時代の理論が通用しない別世界だった」
「別世界だったのは大学の方だったんじゃない?」
「たしかに。そういや俺たち、かなりバカなことやってたよなあ」
それから、デザートが来るまでの間、大学時代の思い出話に花が咲いた。
楽しかった頃の懐かしい話をしていると、彼と別れたのは嘘だったのではないかと思えてくる。
時間は、二度と修復出来ないと思っていた深い溝を、知らないうちに埋めていたのだろうか。
コース料理の最後に、目にも美しい芸術的なデザートが目の前に運ばれてきた。
周囲の木々がなければ、ここがバリ島だということを忘れてしまいそうになる。
「あなたは…結婚したの?」
再会した時から気になっていたことを尋ねた。
彼はジャワコーヒーのカップに手を伸ばした。
「したよ。君と違ってね。2年前かな」
その答えに、僅かだが失望感を覚えた自分の気持ちに私は焦った。
失望?なぜ?失望は期待の対極だ。私は何を期待していたの?
動揺を隠して、私は努めて冷静に聞いた。
「じゃあ、奥様も一緒にジャカルタに?」
彼は一度近づけたコーヒーカップから唇を離した。
「妻とは半年前に別れた」
別れた…予想もしなかった答えに私の心は翻弄された。
気づくと、彼の力強い視線が私に向けられている。
私はその視線を受け止めきれずに俯いた。
はるか昔に終わった恋に未練などあるわけない。でも、胸の奥がざわめくのはなぜ?
「別れた理由、聞きたい?」
私は首を横にはっきり振った。そして揺れる気持ちの手綱を引き締めた。
「私には関係ないことだから」
苦笑混じりの小さな溜め息が彼から漏れる。
「関係ない、か…ま、たしかにその通りだな」
彼が左手首にはめた腕時計をチラッと見た。
フランク・ミュラー、コンキスタドール・コルテス。こんなところまで同じだなんて。
「門限、何時だっけ?」
真面目な顔で尋ねてきた彼に思わず吹き出した。
学生時代、私が住んでいたアパートには大家の意向で、今時では考えられない門限があった。
いったい何度、駅からアパートまでの道を夜遅く、彼と一緒に全力で走ったことだろう。
そんな愉快な思い出に油断してしまったのかもしれない。私は深く考えもしないで、笑いながら首を振った。
「門限は何時ですかって、ホテルの支配人に聞くの忘れちゃった」
場所を変えて飲もう、と彼が案内したのは、フォーシーズンズのラウンジだった。
熱帯の木々に囲まれたアユン渓谷を望むカウンターに並んで腰掛けた。
紫紺の闇よりさらに黒々とした密林のシルエットは、影絵の背景のように見える。その影絵の上には、ホテル棟につながる渓谷に掛けられた吊り橋で見た、宝石箱のような星空が輝いている。
彼がここに泊まっていると聞いて、商社の駐在員ってずいぶん贅沢な生活してるのね、とちょっぴり皮肉を込めて言った。
「いや、ここに泊まるのは初めてだよ」
そうなの?と疑いの目を向けると、彼は水割りのグラスに口をつけて鷹揚に頷いた。
「当分バリ島に来ることはないだろうなあと思ったんだ。だから最後の記念にというか。ここだけまだ利用したことがなかったからね」
つまりここ以外は、別れた妻と利用したことがあるということか。
「俺も変わっただろ?」
微かな笑いとともに彼が言った。
「フォーシーズンズに泊まるなんて、あの時の俺だったら考えられなかったからな」
あの時。あのパラオの最後の夜。
彼が選んだホテルの部屋で、そのホテルのことで大喧嘩をした。
「それは…経済的な余裕があるからなんじゃないの?」
「まあ、それもあるだろうけど、やっぱりあの時、君に言われた言葉がずっと引っ掛かってたんだと思う」
彼が私の顔をのぞき込む。「覚えてる?」
もちろん。
その言葉が、当時の二人の価値観の違いを決定づけてしまったのだから。
「イヤなことは忘れるたちなの」
「君はあの夜こう言ったんだ。最高の思い出は最高級の場所でしか作れないのよ、って」
「…最悪。何様のつもりだったのかな」
「でも、あながち間違いじゃないよ。場所は確かに重要なんだ。あとは、その場所でどう過ごすかということなんだと思うよ」
彼は空になった水割りのグラスの追加を頼んだ。
「あの時の俺はホテルのサービスに不満と文句ばっかり言ってた。狭い室内、部屋の窓から見える景色、アメニティ、食事の内容、スタッフの態度・・・自分が選んだホテルなのに。自分でどんどんマイナス評価を増やしていった。最悪なのは俺だよ」
彼の手が私の腕にそっと置かれた。
強要も強制もない、相手をいたわるように置かれたその手を、私は初めて見るもののように見つめた。
「君は毎日楽しそうに振る舞って、一生懸命、最高の思い出を作ろうとしてたのに、俺はその気持ちに全然気づかなかった…」
今なら君の怒りも解るよ、と彼は笑って手を離した。
離れていた歳月は、彼の中にどんな変化を与えたのだろう。
高級ホテルなど見向きもしなかった彼が、今ではフォーシーズンズに泊まったり、ブランドものに興味がなかった彼が、人気の高級腕時計を身につけている。
しかし、そんな外見的な変化よりも私が驚いたのは、かつては根拠のない自信を鎧にして、自己主張ばかりしていた彼の横柄な態度が、今はその影すらどこにもないことだった。
私は目の前の小皿にのったチョコレートに手を伸ばした。
ビターなチョコの中に、リキュールを染み込ませたガナッシュが入っている。苦味と甘さのバランスがいい。
…お土産は、バリのコーヒーとチョコレートにしようかな…
チョコレートにブラックコーヒーの組み合わせで、満足げな顔を見せてくれる人を思い出した時だった。
「実は、10月からパリに転任することになったんだ」
夜の静寂を突き抜けて、彼の穏やかな声が耳に飛び込んできた。
「パリ?」
思わず問い返しながら、彼が言った最後の記念という意味がわかった。と同時に、パリという場所への憧れと羨ましいと思う気持ちが湧き上がる。
大学で第2外国語にフランス語を先行したほど、パリは大好きな街だ。これまでにも4回訪れている。
彼も第2外国語はフランス語だった。パリ行きにはそういう背景もあるのだろう。
「じゃあ忙しいわね」
「通常業務に加えて引き継ぎの資料作りもあるからね。それに長らくご無沙汰だったフランス語を勉強し直さなくちゃいけないし、確かに忙しい」
彼の前に置かれたグラスの中で、氷がカランと音を立てて揺れた。
「でも、ジョグジャで君に会う時間くらいは作れる」
無理しないで、と言おうとした私は、続く彼の言葉に耳を疑った。
「一緒にパリに行かないか?」
To be continued
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もう少し早く第2話をアップする予定だったんですが、やっぱり週末になってしまいました
そして、アップしてから気付いたんですが、なんと、関西弁を話す「彼」がこの話では一度も出てきてないんですよね~
後から、強引に突っ込もうかと思ったんですが、話の展開的に入れる余地なし…
まあ、今回ちょっと長い短編(短編というくくりでいいのか?)ということでご容赦ください
次回からは、ちゃんと出てきます。
ところで、今回の作品ですが、長文が多いんですけど、そのあたりどうなのかなあと。
縦書きの本で読むのと違って、横書きの文章って長文だと読みにくくないですか?
特に携帯からだと文章が固まりになりやすいので、今までの作品はなるべく短いセンテンスで、会話を多めに書くようにしてました。
ただ、さすがに長い話を書くとなると、そうそう短いセンテンスや会話だけで繋げるというわけにもいかず…もし読みにくかったらスミマセン。
ライステラスの写真はウブドらしい雰囲気のがあったので入れてみたんですが、フォーシーズンズのラウンジの写真がなぜかない。
前に一度泊まったので、写真に使えそうなものがないか探したんですが、なんだか部屋の写真とか部屋から見た写真とかそんなんばっかりで(初めてのスイートルームにテンションが上がりっぱなしだったんやろなあ)、しかも夜撮った写真が1枚もない
仕方ないので公式サイトの写真を載せます。まあ、これも日中の写真なんですけども、こんな感じのラウンジなんですよ~
当時、とある旅行会社のパンフレットの表紙にこれが使われてて、最初は違う所(たしかヨーロッパのどこかだった気が)に行こうと思っていたのに、偶然、旅行会社のラックでこれを見た途端、「ここに行きたい」となりまして。
ラウンジから臨むこの緑いっぱいの光景にめっちゃ惹かれたんですよね。
きっと癒されたかったんかなあ
ここのカウンターでお茶をしてる時に、急に思い立ってティガラランのライステラスにホテルの専用車で行ったりとか、夜はソファー席でカクテル飲んだりとか、思い出します。
でも、サイドメニューにチョコレートがあったかどうかは覚えてません(笑)
第3話は、ほぼ出来上がってますので、近いうちにアップしますね