<第1話> <第2話>
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夕刻、ガルーダのボーイング機はジョグ・ジャカルタの国内線ターミナルにランディングした。
乾季のインドネシアにしては珍しく、窓の外は雨模様だった。
アマンジヲのウェルカムボードを手にした白い制服のホテルスタッフに誘導されて、人混みと車両でごった返す到着口の玄関ロビーから、迎えの車に乗り込む。空港からホテルまでは約1時間の道のり。
車がハイウェイに乗った時には、雨が夜への加速を早めたのか、すでに空は暗く沈み込んでいた。
― 一緒にパリに行かないか…
要はプロポーズだった。
旅先で派手に喧嘩別れした後は、大学を卒業してから一度も顔を合わせたことすらなかったのに。
今回偶然、久しぶりに再会して、再会したその日にプロポーズだなんて、普通の常識じゃありえない。
「でも、俺たちは初対面ってわけじゃないだろ」
「それはそうだけど…」
「4年間積み重ねてきた俺たちの関係が、たかが意見の相違で別れたくらいでリセットされたなんて、俺は思ってないから」
たかが意見の相違…
だったら、なぜその時に、すぐに関係を修復しようと思わなかったのか。
私の中では、完全に『ジ・エンド』だった関係が、彼の中では終わっていなかった、そんなことがあるんだろうか。
「でも…やっぱり不自然じゃないかな」
「それは君の感覚だろ?俺はね、昔付き合ってた二人が、偶然このタイミングで、日本以外の場所で再会した奇跡を信じるよ」
「…運命、ってこと?」
「ベタな言い方をするならね」
彼は返事は急がない、と言った。
仕事のこともあるだろうし、身の回りの整理もあるだろう、だから返事を待つ、と。
結局の所、いま付き合っている人がいることをはっきり言わなかった私がいけないんだろう。
「いま好きな人がいるの」
たったその一言だけで、すべて終わってたはずなのに。
その一言すら言えなかった理由は考えるのもおぞましい。
結婚という安定。
パリに住むという魅力。
相手はかつて好きだった人。
目の前にぶら下げられた甘い蜜に吸い寄せられているだけだと分かっているのに、そこから目を離すことが出来ない。
私は手帳に挟んだ彼の名刺を取り出した。
知らない人はいない大手商社の名前の下に、ジャカルタ副支店長の肩書きとともに彼の名前が刷られている。
田宮 裕
YUTAKA TAMIYA
彼に再会するまで、同じ名前だったことすら忘れていた。もちろん同じといっても漢字だけで読み方は違うのだけど。そして、名刺の裏に携帯番号の走り書き。
― もし、君の気持ちが滞在中に決まったら連絡をくれないか。仕事は二の次でジョグジャまで飛んでいくから…
あの夜から、私は聞き慣れた関西弁の声が聞きたくてたまらなかった。いったい何度、携帯に名前を表示させたことだろう。
でも、結局、電話することは出来なかった。
話せば解決するというような簡単なことじゃないのは、自分が一番よく分かっていた。
私が自力で答えを出さなくちゃいけないことだった。
気づくと、車はハイウェイを外れて、街灯もない道を走っている。車のヘッドライトの灯りだけが頼りだが、ドライバーはスピードを落とすことなくハンドルを握っている。
ガタガタと音を立てて、オランダ統治時代からの木製の橋を渡ると、車は最後の坂道を上がった。坂を登りきって緩いカーブを曲がると、ジェットコースターのような急角度の坂を一気に下っていく。
その坂の終着点に、煌々と灯りに照らされて、ライムストーンで造られた建築物が忽然と姿を現した。
古代の神殿のような円柱がぐるりと囲むアマンジヲの威容に圧倒されているうちに、車はホテルスタッフが総出で迎えるエントランスに到着した。
パーソナルアシスタントが、ようこそアマンジヲへ、と車から降りた私を笑顔で出迎えた。
彼にエスコートされ、アマンジヲに足を踏み入れた瞬間、私は胸に抱えた悩みをほんの一時、忘れることができた。
夜明け前、淡い藍色の色彩が支配する中、周囲にたちこめた深い朝靄が視界を遮っている。
すぐ目の前に並ぶ数塔のストゥーバ(仏塔)以外は、この寺院の頂上まで息を切らして上がってきた長い石段も見えない。
ボロブドゥール寺院から臨む日の出を拝むために、まだ暗い夜明け前からここに集まった観光客たちの顔に、これはダメだという苦笑や諦めの表情が浮かび始めていた。
乾季とは言え、周囲を山々に囲まれたケドゥ盆地にあるボロブドゥールは、山から吹き下ろしてくる風など天候の影響を受けやすい。御来光を望めるのは運次第だ。
しばらくすると、周囲はまだ靄に覆われていたが、すっかり明るくなって、どうやら日の出の時刻はとうの昔に過ぎたようだった。
夜が明けてしまったことにようやく納得した人々は、それぞれのツアーのグループに合流し、世界遺産である、世界最大の仏教建築の観光に戻っていく。
私は一番上の巨大な仏塔の石段に腰掛けて、巨大な曼荼羅を模したとも言われるこの聖地を抱く緑の大地が、白いベールの中から姿を現してくるのを見つめていた。
「ええなあ、俺も行きたいなあ」
ベッドの中でインドネシアのガイドブックを見ていた彼が、隣に入ってきた私を見ずに言う。
「実際行けないんだからしょうがないじゃない」
「俺、ここ行きたい」
ボロブドゥール寺院のページを開いて私に見せた。
「うん、私が下見してくる」
「なんや下見て。ガッチガチのプライベートな旅行やろ。冗談でもおもんない」
「もう、次はちゃんと行ける?って聞くから」
私は彼からガイドブックを取り上げると、その空いた彼の手をそっと握って「ごめんね」と小さく呟いた。
彼の表情にちょっと照れたような笑いが混じって、ホッとする間もなく、私の体は彼に引き寄せられていた。
「次っていつやねん」
私を抱きしめながら、彼がベッドサイドの電灯を消した。
暗くなった部屋の中で耳にする彼の声に、狂おしくなるほど愛しさが募る。私も彼の耳元に唇を寄せて言葉を返した。
「いつがいい?」
「いつがええかな」
「きみ君が決めて」
「なんで?」
「だって私、きみ君の予定ぜんぜん知らないもん」
それともこれから全部教えてくれる?と囁いた途端、鳩尾に軽いジャブが入った。
「おまえ、策士やなあ。うわ、危なかったあ。俺、うっかりええよ、て言いそうになったわ」
「ケチ」
「ケチでええわ。ホンマ危な、俺、いまマジで情報漏洩するとこやった」
彼と私の笑い声がぶつかり合って、暗闇に吸い込まれていく。
「あれやな、ガイドブックに書いてあったけど、あの『ぼろぶどーる』寺院て、世界最大の仏教のお寺なんやて。だから世界遺産なんやろうけど。インドネシアって、仏教なん?」
「今のインドネシアはイスラム教が多いんじゃなかったかな」
「ふうん…お寺さんてことは、お参りするとこやろ。おまえ、何お願いしてくんの?」
「んー…世界平和?」
「おまえ、よう言うわ。それ仏様への無茶ぶりやで」
いま、このボロブドゥール寺院に実際に立ってみて思う。
世界平和を願うのは無茶ぶりじゃないかもしれない。
日々の平穏を願い、この地に建てられた壮大な寺院に、紀元前の古から幾重にも染み込んだ人々の祈り。
一人一人が願う小さな平和が重なり、重なりあえば、それは一つの大きな平和になるのではないか。
…もし彼がここに立ったら、何を感じるのかな…
周りを見渡して、アマンジヲのスタッフと専任ガイドが私を見つけて、手を振っているのに気がついた。
アマンジヲのゲストルームは、一人では持て余してしまうほど、広々としたスイートルームだった。
外のプライベートプールに設えられている茅葺き屋根のガゼボから、彼方のボロブドゥール寺院を見下ろすと、緑の絨毯の上に置いた黒い文鎮のように見える。
午後を回った今頃は、観光客も一番大勢訪れているのだろうか。ここからではその様子を伺い知ることは出来ないが。
空に浮かんだ白いわた雲が、プールの水面に映り、時折吹きぬける風が、その水鏡を静かに揺らして、小さなさざ波を作っていく。
小さな蜥蜴が、私の様子を窺いながら、ガゼボのカウチの上をちょろちょろ探索していた。
静かな午後だった。
人工的な物音が一切しない空間は、人の心も無にしていくのだろうか。
私は大きなクッションを背中に当て、広々としたカウチの上で体を伸ばして、惰眠を貪っていた。
「今から帰るの?」
フロントにタクシーをお願いしようとした私を彼が呼び止めて、自分の腕時計を指差して言う。
「これじゃ、タンジュン・サリに着くのは1時過ぎだよ」
「アメリカ人なんてクラブで真夜中まで遊んでるじゃない。大丈夫よ」
「部屋のベッドを貸すよ。俺はカウチで寝るから。カウチと言ってもシングルベッド並みだし」
私は首を振って、フロントのスタッフに、タクシーを呼んでとお願いした。
すると、彼が待ってとスタッフに制止をかける。
「明日、空港に行く途中で君をホテルで下ろすよ。だから…そうしないか?」
「ありがとう。でも、やっぱり帰らせて。いろいろ…考えなきゃいけないし…」
「…怖い?」
「何が?」
即座に問い返した私と彼の問いかける視線が絡み合う。
そう。その通り。
怖くてたまらない。
もしも、このままここに留まったら、何もないままでは終わらない気がするから。
でもそれを口にしたら、自分の気持ちが揺れ動いていることを、彼に悟られてしまう。
私は、彼から視線を外すと、再度タクシーを回してくれるように頼んだ。
私のこの迷いはいったい何なのだろう。
何を私は迷っているんだろう。
不意に感じた肌寒さと、叩きつけるような激しい雨音の大合奏に、午後の微睡みから叩き起こされた。
先ほどまで明るい陽射しに照らされていたはずなのに、辺りはまるで夜のように暗い。墨を撒いたような真っ黒な空からは、槍のように豪雨が降り注ぎ、遠くから雷鳴の轟きも聞こえてきた。
カウチの上に2枚敷いていたバスタオルの1枚を頭から被り、もう1枚のバスタオルで本やカメラを包んで抱きかかえると、ガゼボから部屋のドアまでのわずか数メートルの距離をダッシュした。
そのわずか数秒の移動で、バスタオルごと頭からびしょ濡れになるほどの激しいスコール。
滝のような雨筋が途切れなく流れ伝う窓から暗い外を見ると、稲光がいきなり闇を切り裂いた。
服に着替えて落ち着いた私は、室内のコンポに、自分のiPodをセットした。
スピーカーから大音量で流れてきた歌は、このスイートルームにも、この聖なる土地の雰囲気にもまったくマッチングしていなかった。
けれど、今の私が一番必要としていた、聴きたかった歌だった。
時々、ソロやハモリで聞こえてくる彼の声を、私は耳で一つ一つ拾いあげた。
わかりきっていることなのに
答えは目の前にあるのに
彼への想いがループのように回って回って
でも、なぜか答えに辿り着かない。
それは答えを出したくないから?
本当にそうなの?
答えの出ない答えに納得いく答えを出そうとして答えのない答えの答えを私は探している。
まだ宵の時間ではないが、まるで夜の帳が降りたように、暗く沈んだ外を見やる。
雨は激しく地面を水面を窓を叩き、まだまだ止む気配はない。
To be continued
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
フラゲしてきた「8UPPERS」に行く前に、短編をアップすることにしました。
さーてスッキリした気分で見るぞー
CDショップではDVDがガンガン流れてて、私が画面を見るたびに横山さんが
なんだこれ。本能か?(笑)
次の4話がまだ出来てないのですが、週末にはなんとか載せられるかなあ。
ところで、なぜ、「私」がこんなに悩んでるのか、自分でもよくわからないんですが(笑)
どう考えたって、いま付き合ってる相手が優先でしょう。
だって、相手に不足はないわけだし。いまをときめくアイドルですよ(笑)
テンション上がって、マルのおでこにKicyuしたり、弟が帰ってきたと思ったら学校へ行ってしまうと凹んだりしちゃうような可愛い人ですよ。
でも…ということなんですよね、この話は。
恋人としてならありえても、自分の人生の伴侶として見たときにどうなのか。
そこに、すごい好条件(笑)で、結婚しようとプロポーズしてくる相手が現れた場合、しかもそれがかつて愛した人だったら?それでも、「私」は彼を選ぶのか?
きっとそれは、付き合っている相手がアイドルだろうが一般の人だろうが、そういうシチュエーションになった場合、悩む気持ちは同じだと思うんですけど、いかがでしょう。
「私」がどうやって答えを導き出すのか。
うーん、実はまだそこのところが具体的に定まってません
ラストシーンは決まってるんですよ。
でも、そこにどうやって持っていくのか。決まってません。
どうすんだ、私。