あれ鮎か?鯉か?
なお、現在の高崎線は「中山道線」として計画されて、
群馬、長野を通過して関西まで延びる予定でした。
なお、明治14年には建設許可はすでに下りています。
ところで、、、明治16年5月1日に前橋市街地の半分以上を焼いた、
「前橋大火」があったのですが・・・
スルーか・・・?
まさか、庭で炊いている火が大火に・・・?
先週1週間の訪問者数2494人!!
過去最多の『神剣の守護者』発売翌週を軽く超えました。。。
すこ~し・・・複雑な気もしないでもないですが、
多くの皆様、ありがとうございます。
前橋城北の高浜公園に長年あり、
ドラマのために場所を前橋公園に移転させた「楫取素彦功徳碑」です。
篆書有栖川熾仁親王、撰文重野安繹撰文、金井之恭書です。
県令退任後の明治25年完成。
実はこれは建立直後、内容に怒った前橋の人々に引き倒されかけたといいます。
それは、この中の「ある一文」が当時の人々を大いに怒らせたからなのですが・・・
・・・すみません、ちょっと今忙しくて今日はここまでで。
ただ、下村善太郎らが宥めたようで、石碑は今日まで現存しております。
と、ここからは追記です。
これが碑文ですが、問題は3行目から4行目(見づらくてすいません)
「上野自古称難治、其民剽悍軽佻臨時躁急、無老成持久之実」
上野(群馬県)は古より治める事難しく、その民は剽悍(荒っぽい)であり、
軽佻(軽はずみ)で、躁急(忙しい)にして、老成(分別)持久(忍耐)の実はなし。
・・・つまり群馬県人は荒っぽく、軽はずみでせわしなく、分別忍耐がない・・・と。
これは実は元ネタがあるらしく、楫取県令退任直前の臨江閣の送別会で、
県職員がほぼ同じ内容の送辞文を読み上げています。
ほら、、、転任する人を送る場合、相手を褒めて自分と下げる・・・
それが何か、碑文に転用されたらしいです。
もちろん、大半の県民はそんなこと知らない訳で、
これを見て「馬鹿にするな!」と石碑を引き倒そうとしました。
まあ、荒っぽいし早急なのでw
ただ、この石碑が最初に設置された高浜公園は、
楫取県政最大の協力者である、下村善太郎が市に寄贈した土地。
「まあ、俺の顔を立ててくんねぇか」とか、説得があったかは定かでありませんが、
今でも現存することになった次第です。
なお、明治の群馬県を「難治県」とよく説明されますが、
それもどうやらここが初見らしい。
この一件が残した教訓は、送別の辞は程々に・・・なのかw
智本光隆