花燃ゆも最終回ですね。
・・・いや、養蚕について学校で教えてもらうことはない。
間違いなく全群馬が突っ込んだw
なお、下にも書いてありますが、
明治15年6月に上野―高崎―前橋間の鉄道が着工。
鹿鳴館落成は明治16年11月28日です。
あと、井上馨の妻・武子は群馬県人(旧姓・岩松)だよな・・・
迎賓館(臨江閣)については
「前橋から花燃ゆ㉑臨江閣」にて。
・・・というか、夏は桑取ったり、蚕に食わせたり忙しいんだが。
さて、明治政府が行った一大事業として上げられるのが鉄道の施設。
まず、真っ先に名前が上がるのは新橋―横浜間ですが、
実は前橋(厩橋)も明治3年の時点で生糸輸出のためとに、
「信州上田、上州厩橋、奥州福島、羽州米沢」など生糸産地に鉄道を施設すべしと、
名前が上げられています。
実際に明治13年2月に東京―前橋間に鉄道起工命令が政府より下されています。
これとほぼ同時並行で
「中山道線」の建設も計画されます。
明治まで江戸―京都・大坂間は東海道、中山道の2つのルートが通っており、
このどちらに鉄道を敷くかという話です。
これは明治4年から調査が進められたものの、よ
うやく明治15年になって中山道線建設の許可がおります。
決定理由は東海道より中山道ルートの方が養蚕地域を通過すること、
そして山県有朋ら軍首脳が海上よりの攻撃に備え、
内陸ルートを推したためと言われています。
ところが、この間に西南戦争もあり財政的に不安定に・・・
ここから先が、話が大分こじれますw
財政難に陥った政府は薩摩出身の吉井友実を社長とした、
半官半民の
「日本鉄道会社」を設立して、
まず「中山道線」の建設に取りかかります。
この時、前述の明治13年の東京―前橋間の計画は凍結されており、
区間は高崎までとされました。
しかしこの日本鉄道、発起人には宮崎有敬初代群馬県議長、星野長太郎副議長(水沼製糸場社長)
そして下村善太郎らが群馬県関係者が名を連ねていました。
そのため、、、
日本鉄道会社株金領収表(明治15年)
府県 人数 株数
東京 1055 83449
埼玉 396 3781
群馬 3233 7208
栃木 3 34
株主の人数では東京を抜いてトップに!!
しかも下村ら前橋関係者が大半を占めた為に、
正式決定では東京―高崎―前橋間の着工が決定しました。
もちろん、これが後の国鉄(JR)高崎線ですが、
実は最初は私鉄だった!!
しかし!ここで最大の問題が。
高崎から前橋に至るルートには、
「坂東太郎」の異名をもつ大河・利根川があります。
幕末に万代橋、総社橋、そして初代大渡橋が架けられるも、
いずれも短期間に流失。明治10年代になっても船橋に頼る状況でした。
富岡製糸場の工女さん達は船橋渡って前橋まで来たのかね・・・
そこで利根川架橋はひとまず後回しにして、
仮設の前橋駅を利根川西岸に設けることにしました。
現在の新前橋駅との利根川の間に内藤分(内藤ステーション、石倉ステーション)が置かれました。
これが初代「前橋駅」になります。
内藤ステーション跡。現在は石碑と汽車のプレートがあります。
なお、石碑は福田赳夫元首相書。
起点は上野となり、明治15年6月に上野―高崎―前橋間が着工。
上野―熊谷間が16年7月にまず開業。
同年10月に熊谷―本庄間が開業して、
更に12月27日に新町まで開業して、群馬県にはじめて鉄道が敷かれました。
・・・なお、鹿鳴館の落成は明治16年11月28日ですw
新町―高崎間の開業が明治17年5月1日。
楫取県令は同年7月30日に県令職を辞し、
この高崎駅から群馬を去っています。
そして8月20日に高崎―前橋(内藤分)が開業します。
その後、私鉄の「両毛鉄道」のより小山―前橋間が建設され、
明治22年11月20日に完成します。
この間に明治18年の不況がありましたが22年に遂に利根川に鉄橋が完成し、
12月26日に前橋駅に鉄道乗り入れが実現しました。
(内藤ステーションは前日の25日)に廃止。
内藤ステーション跡を走る両毛線。現在は高架。
なお、後日談を少し足すと、
「中山道線」計画は明治18年に横川駅までは早々に完成するものの、
その先の碓氷峠の工事が難工事を極め、
最終的には主要ルートは東海道となりました。
もし、中山道線が予定通り完成していたら、
日本列島の風景も随分と変わっていたでしょう。
ああ、、、のんびり釜めし食えないか・・・
全線開通して前橋田中町(現表町)に開業した前橋駅。
昭和2年まで使用されます。
参考文献
『群馬県史』通史編8 平成元年
『前橋市史』第3巻 昭和53年
『写真集 明治大正昭和 前橋』 昭和54年
智本光隆