(12.19 一部加筆修正しました)
ご質問もいただいてしまいましたので、
ここはドラマの「阿久沢せい」のモデルと思われる、
下村善太郎の妻「下村せい」についてです。
せいの父は前橋の立川町の畳屋・小泉長七で、
元の名は「小泉せい子」です(ブログはせいで統一します)。
当時、前橋でも「顔立ち美しく優しく」、そして「心映え雄々しく美しい」
そんな少女だったそうです。
2人の結婚は善太郎が17歳、せいが16歳の時で、翌年には長女のちか子が生まれています。
ところが、若き日の下村は仕事(小間物屋)を放り出して博打に嵌り込みます。
この当時、前橋藩は本城を川越に移しており、
それにより街の風紀は乱れ放題。
(後の下村の県庁誘致は、この時の街の荒れようを知っているからこそですが)
その上に米相場にまで手を出して、遂に実父始め親族からも絶縁状態となります。
この危機を救ったのがせいの兄・小泉藤吉でした。
下村はこの義兄から八王子の糸屋源兵衛を紹介してもらい、
また祖母・きせ子から支度金6両2分400分と夜具布団だけを用意して貰うと、
妻のせいと娘を連れて八王子で再起を期します。
時に嘉永3年(1850)、まさに黒船来航の直前で、
前橋を旅立った下村は24歳。せいが23歳、ちか子が4歳。
しかし、この時に八王子の糸屋には、
「(下村には)金銀の儀は一切御貸し下さるまじ」と紹介状に書かれていたので、
金を借りていきなり起業は不可能に。
しかも、支度金は八王子に長屋を借りただけど、早くも底を尽きかけた状態に・・・
そのため、下村はまず熨斗糸買から商売をはじめます。
せいは当初は借りた長屋で繕い物の仕事をしており下村を支えます。
やがて糸屋の信頼を得た下村は、木綿反物、絹織物と商売を広げて行きます。
そして、せいも長屋に別の部屋を借りると、
そこで下村とは別に質屋をはじめます。
この時期、せいは生活費はすべて自分の稼ぎで賄い、
下村は稼いだ銭はすべて商売につぎ込むことが出来たといいます。
やがて、下村は武蔵大沼田村から生繭を買いこれを生糸に製造、
武蔵全域、上野からも生繭を買い付け、遂に巨万の富を得るに至ります。
前橋を出てから、8年目のことでした。
なお、この時期に祖母を八王子に引き取って、せいが世話をしています。
さて、そしてペリー来航と横浜開港を経た、
そんな文久3年(1863)に下村の父・右衛門が世を去ります。
熨斗糸買として八王子をはじめ、横浜にまで人脈を作り、
そして今や生糸売買で巨万の富を得た善太郎は、家業を継ぐべく前橋に錦を飾ります。
小間物屋「三好善」は生糸商となり、
それからの生糸商人としての下村の活躍は言うまでもなく、
前橋の教育、インフラ整備にも大きく尽力しています。
前橋に戻った翌年、せいは長男の善右衛門を産んでいます。
(姉のちか子とは19歳差!)
その後、せいが表舞台に立つことはなかったようです。
ですが、前橋の生糸商人のまとめ役となり、
そして県庁誘致を成し遂げた下村を陰に日向に支え続けました。
下村の商法は基本的には農家の生糸を買い上げるか、
もしくは生繭を農家に卸し委託生産する(賃引き)が主でしたが、
「昇立社」という自前の製糸工場も作っています。
この製糸工場ではせいも糸を紡いだと言われています。
そして以前に下村の窮地を救った、せいの兄・小泉藤吉の子は三好善の番頭を経て、
昇立社の支配人になっているので、
せいが工場を差配したのかな・・・と推測はしています。
他にも明治6年頃に、下村は商家2階で奉公人、工女のために
「夜学」を開いていますが、これにもせいの影響は充分にあったでしょう。
ちなみに2人の子は、姉のちか子は幼い頃からせいが手習いを熱心にさせ、
書の名人だったようですが、明治19年に38歳の若さで病死しています。
長男の善右衛門は下村の全盛時代に成長して、
慶応大学に進学した後に家業を継いで、衆議院議員に2度当選しています。
下村善太郎は前橋市長在任中の明治26年、
横浜に出張に向かう途中の汽車の車内で倒れ、東京の病院に入院し、
前橋から駆け付けたせい達に看取られて67年の生涯を閉じました。
亡骸はすぐに前橋に運ばれ、当然前橋市葬となりましたが、
この際にせいは質屋時代からの蓄えを出し、
葬儀費用に当てたといいます(形は市葬、費用は下村家という事か?)
せいはその後も健康を保ち続けましたが、
明治43年11月22日に世を去りました。享年83歳。
下村は妻のせいに生前「俺はどんなに稼いでもお前には及ばない」と、
常々口にしていたと言います。
前橋の龍海院にはある墓石には下村善太郎とせい――2人の名前が並んで刻まれています。
参考文献
『下村善太郎と当時の人々』栗田秀一 大正14年
智本光隆