さて、それであとがきの続き(前回いつだった?って話なんですがw)
兄である関白秀勝よりも「動かしやすいか?」的に選んだ秀勝ですが、
実は「秀勝」を名乗った「秀吉の子」は3人いたと言われています。
つまり、
1、石松丸(豊臣秀吉長男)
2、於次秀勝(織田信長四男、秀吉養子)
3、小吉秀勝
この3人。
本作の主人公は3代目の小吉秀勝。秀吉の姉。ともの次男で秀吉からすれば甥になります。
なのですが、この「秀勝」なる者達・・・はっきりいえば「よく分からない」
まず、初代の石松丸は長浜城主時代の秀吉の実子と言われています。
もっとも元服前に死んでいるのは、仮に石松丸を秀勝だとすると、
それは将来「名乗らせるつもり」だったことになりますか。
そして2代目・・・於次秀勝は織田信長の四男で秀吉の養子に。
山崎の合戦では総大将となり(『本能寺将星録』のときは出しませんでしたがw)、
戦後は明智光秀の居城である丹波亀山城主になります。
実子のない秀吉の後継者だったわけです。
その二代目秀勝は秀吉の関白宣下と同じ年に、18歳に若さで病没します。
翌年、その名前と居城の亀山城、そして少将の官職までそっくり引き継いだのが、
本作の主人公である3代目・小吉秀勝。
この謂わば「秀勝名跡継承」があまりに自然に過ぎたため後世の一時期、
於次秀勝と小吉秀勝は同一人物という見解さえありました。
つまり、、、織田信長の四男はその後も生き続け、文禄の役の最中まで生存したと。
当初、この「秀勝すり替え」を物語の軸にする案もあったりしました。
メインキャストに蒲生氏郷、細川忠興の信長系大名がいるのは、実はその名残。
最終的には秀勝―関白秀次―太閤秀吉の3者を軸に物語は進みましたが、
で、この小吉秀勝という男、、、
・秀吉の養子になったのは兄の秀次よりも先(当時、兄秀次はまだ三好姓)
・妻は織田信長の姪・お江の方。
・九州征伐で武勲を立てるが、知行に不満を言って所領没収→以後、一時消息不明。
・小田原攻めの頃に帰参して戦後、甲斐国主に。国内では積極的に治世にあたる。
・わずか8ヶ月で岐阜に国替え。
・文禄の役では第九軍総大将(この地位は事実上の総大将)
・巨済島で陣没。
・・・これが大まかな略歴。これで浮かび上がる人物上は聡明な人物?それとも暗愚な男。
実はこの他にも、、、
・豊臣秀勝の家臣だったという、名のある者が見当たらない。
亀山城主就任時も放棄時も、家臣の引き継ぎがない。
死後、岐阜城主となった織田秀信は新規に家臣団を編成している。
・小田原攻め直前に蜂谷頼の旧領・敦賀を得たともいうが、
蜂谷の家臣団はそっくり大谷吉継が引き継いでいる。本当に敦賀城主にはなったのか?
もちろん、豊臣家が現在、存続していないということ。
兄の秀次が後に切腹させられていることなどもありますが、どうも秀吉存命時の豊臣政権が、
「豊臣秀勝という男の存在を、この世から消そうとした」ような印象を受けました。
二代目秀勝もまるで、存在を消されたように三代目に代わりました。
病死かそれとも・・・はよく言われるところですが。
そして、その三代目も文禄の役の最中に急死。
後の秀次事件の顛末を見れば、これはただの陣没かそれとも、、、
このあたり「天下人」豊臣秀吉のダークサイドのような気がします。
穿ちすぎといえば、それまでか・・・・?
兄である関白秀勝よりも「動かしやすいか?」的に選んだ秀勝ですが、
実は「秀勝」を名乗った「秀吉の子」は3人いたと言われています。
つまり、
1、石松丸(豊臣秀吉長男)
2、於次秀勝(織田信長四男、秀吉養子)
3、小吉秀勝
この3人。
本作の主人公は3代目の小吉秀勝。秀吉の姉。ともの次男で秀吉からすれば甥になります。
なのですが、この「秀勝」なる者達・・・はっきりいえば「よく分からない」
まず、初代の石松丸は長浜城主時代の秀吉の実子と言われています。
もっとも元服前に死んでいるのは、仮に石松丸を秀勝だとすると、
それは将来「名乗らせるつもり」だったことになりますか。
そして2代目・・・於次秀勝は織田信長の四男で秀吉の養子に。
山崎の合戦では総大将となり(『本能寺将星録』のときは出しませんでしたがw)、
戦後は明智光秀の居城である丹波亀山城主になります。
実子のない秀吉の後継者だったわけです。
その二代目秀勝は秀吉の関白宣下と同じ年に、18歳に若さで病没します。
翌年、その名前と居城の亀山城、そして少将の官職までそっくり引き継いだのが、
本作の主人公である3代目・小吉秀勝。
この謂わば「秀勝名跡継承」があまりに自然に過ぎたため後世の一時期、
於次秀勝と小吉秀勝は同一人物という見解さえありました。
つまり、、、織田信長の四男はその後も生き続け、文禄の役の最中まで生存したと。
当初、この「秀勝すり替え」を物語の軸にする案もあったりしました。
メインキャストに蒲生氏郷、細川忠興の信長系大名がいるのは、実はその名残。
最終的には秀勝―関白秀次―太閤秀吉の3者を軸に物語は進みましたが、
で、この小吉秀勝という男、、、
・秀吉の養子になったのは兄の秀次よりも先(当時、兄秀次はまだ三好姓)
・妻は織田信長の姪・お江の方。
・九州征伐で武勲を立てるが、知行に不満を言って所領没収→以後、一時消息不明。
・小田原攻めの頃に帰参して戦後、甲斐国主に。国内では積極的に治世にあたる。
・わずか8ヶ月で岐阜に国替え。
・文禄の役では第九軍総大将(この地位は事実上の総大将)
・巨済島で陣没。
・・・これが大まかな略歴。これで浮かび上がる人物上は聡明な人物?それとも暗愚な男。
実はこの他にも、、、
・豊臣秀勝の家臣だったという、名のある者が見当たらない。
亀山城主就任時も放棄時も、家臣の引き継ぎがない。
死後、岐阜城主となった織田秀信は新規に家臣団を編成している。
・小田原攻め直前に蜂谷頼の旧領・敦賀を得たともいうが、
蜂谷の家臣団はそっくり大谷吉継が引き継いでいる。本当に敦賀城主にはなったのか?
もちろん、豊臣家が現在、存続していないということ。
兄の秀次が後に切腹させられていることなどもありますが、どうも秀吉存命時の豊臣政権が、
「豊臣秀勝という男の存在を、この世から消そうとした」ような印象を受けました。
二代目秀勝もまるで、存在を消されたように三代目に代わりました。
病死かそれとも・・・はよく言われるところですが。
そして、その三代目も文禄の役の最中に急死。
後の秀次事件の顛末を見れば、これはただの陣没かそれとも、、、
このあたり「天下人」豊臣秀吉のダークサイドのような気がします。
穿ちすぎといえば、それまでか・・・・?
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