歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

前橋から花燃ゆ㉔群馬鉄道物語

2015-12-13 19:53:33 | 日記
花燃ゆも最終回ですね。
・・・いや、養蚕について学校で教えてもらうことはない。
間違いなく全群馬が突っ込んだw
なお、下にも書いてありますが、
明治15年6月に上野―高崎―前橋間の鉄道が着工。
鹿鳴館落成は明治16年11月28日です。

あと、井上馨の妻・武子は群馬県人(旧姓・岩松)だよな・・・
迎賓館(臨江閣)については「前橋から花燃ゆ㉑臨江閣」にて。

・・・というか、夏は桑取ったり、蚕に食わせたり忙しいんだが。



さて、明治政府が行った一大事業として上げられるのが鉄道の施設。
まず、真っ先に名前が上がるのは新橋―横浜間ですが、
実は前橋(厩橋)も明治3年の時点で生糸輸出のためとに、
「信州上田、上州厩橋、奥州福島、羽州米沢」など生糸産地に鉄道を施設すべしと、
名前が上げられています。


実際に明治13年2月に東京―前橋間に鉄道起工命令が政府より下されています。
これとほぼ同時並行で「中山道線」の建設も計画されます。
明治まで江戸―京都・大坂間は東海道、中山道の2つのルートが通っており、
このどちらに鉄道を敷くかという話です。
これは明治4年から調査が進められたものの、よ
うやく明治15年になって中山道線建設の許可がおります。


決定理由は東海道より中山道ルートの方が養蚕地域を通過すること、
そして山県有朋ら軍首脳が海上よりの攻撃に備え、
内陸ルートを推したためと言われています。
ところが、この間に西南戦争もあり財政的に不安定に・・・
ここから先が、話が大分こじれますw


財政難に陥った政府は薩摩出身の吉井友実を社長とした、
半官半民の「日本鉄道会社」を設立して、
まず「中山道線」の建設に取りかかります。
この時、前述の明治13年の東京―前橋間の計画は凍結されており、
区間は高崎までとされました。
しかしこの日本鉄道、発起人には宮崎有敬初代群馬県議長、星野長太郎副議長(水沼製糸場社長)
そして下村善太郎らが群馬県関係者が名を連ねていました。
そのため、、、


日本鉄道会社株金領収表(明治15年)
府県  人数     株数
東京  1055   83449
埼玉   396    3781
群馬  3233    7208
栃木     3      34



株主の人数では東京を抜いてトップに!!
しかも下村ら前橋関係者が大半を占めた為に、
正式決定では東京―高崎―前橋間の着工が決定しました。
もちろん、これが後の国鉄(JR)高崎線ですが、
実は最初は私鉄だった!!


しかし!ここで最大の問題が。
高崎から前橋に至るルートには、
「坂東太郎」の異名をもつ大河・利根川があります。
幕末に万代橋、総社橋、そして初代大渡橋が架けられるも、
いずれも短期間に流失。明治10年代になっても船橋に頼る状況でした。
富岡製糸場の工女さん達は船橋渡って前橋まで来たのかね・・・


そこで利根川架橋はひとまず後回しにして、
仮設の前橋駅を利根川西岸に設けることにしました。
現在の新前橋駅との利根川の間に内藤分(内藤ステーション、石倉ステーション)が置かれました。
これが初代「前橋駅」になります。




内藤ステーション跡。現在は石碑と汽車のプレートがあります。
なお、石碑は福田赳夫元首相書。


起点は上野となり、明治15年6月に上野―高崎―前橋間が着工。
上野―熊谷間が16年7月にまず開業。
同年10月に熊谷―本庄間が開業して、
更に12月27日に新町まで開業して、群馬県にはじめて鉄道が敷かれました。
・・・なお、鹿鳴館の落成は明治16年11月28日ですw


新町―高崎間の開業が明治17年5月1日。
楫取県令は同年7月30日に県令職を辞し、
この高崎駅から群馬を去っています。
そして8月20日に高崎―前橋(内藤分)が開業します。


その後、私鉄の「両毛鉄道」のより小山―前橋間が建設され、
明治22年11月20日に完成します。
この間に明治18年の不況がありましたが22年に遂に利根川に鉄橋が完成し、
12月26日に前橋駅に鉄道乗り入れが実現しました。
(内藤ステーションは前日の25日)に廃止。



内藤ステーション跡を走る両毛線。現在は高架。


なお、後日談を少し足すと、
「中山道線」計画は明治18年に横川駅までは早々に完成するものの、
その先の碓氷峠の工事が難工事を極め、
最終的には主要ルートは東海道となりました。
もし、中山道線が予定通り完成していたら、
日本列島の風景も随分と変わっていたでしょう。
ああ、、、のんびり釜めし食えないか・・・



全線開通して前橋田中町(現表町)に開業した前橋駅。
昭和2年まで使用されます。



参考文献
『群馬県史』通史編8  平成元年
『前橋市史』第3巻  昭和53年
『写真集 明治大正昭和 前橋』 昭和54年




智本光隆

前橋から花燃ゆ㉓楫取素彦功徳碑

2015-12-09 22:00:25 | 日記
あれ鮎か?鯉か?
なお、現在の高崎線は「中山道線」として計画されて、
群馬、長野を通過して関西まで延びる予定でした。
なお、明治14年には建設許可はすでに下りています。
ところで、、、明治16年5月1日に前橋市街地の半分以上を焼いた、
「前橋大火」があったのですが・・・
スルーか・・・?
まさか、庭で炊いている火が大火に・・・?



先週1週間の訪問者数2494人!!
過去最多の『神剣の守護者』発売翌週を軽く超えました。。。
すこ~し・・・複雑な気もしないでもないですが、
多くの皆様、ありがとうございます。




前橋城北の高浜公園に長年あり、
ドラマのために場所を前橋公園に移転させた「楫取素彦功徳碑」です。
篆書有栖川熾仁親王、撰文重野安繹撰文、金井之恭書です。
県令退任後の明治25年完成。


実はこれは建立直後、内容に怒った前橋の人々に引き倒されかけたといいます。
それは、この中の「ある一文」が当時の人々を大いに怒らせたからなのですが・・・
・・・すみません、ちょっと今忙しくて今日はここまでで。
ただ、下村善太郎らが宥めたようで、石碑は今日まで現存しております。


と、ここからは追記です。







これが碑文ですが、問題は3行目から4行目(見づらくてすいません)


「上野自古称難治、其民剽悍軽佻臨時躁急、無老成持久之実」

上野(群馬県)は古より治める事難しく、その民は剽悍(荒っぽい)であり、
軽佻(軽はずみ)で、躁急(忙しい)にして、老成(分別)持久(忍耐)の実はなし。


・・・つまり群馬県人は荒っぽく、軽はずみでせわしなく、分別忍耐がない・・・と。


これは実は元ネタがあるらしく、楫取県令退任直前の臨江閣の送別会で、
県職員がほぼ同じ内容の送辞文を読み上げています。
ほら、、、転任する人を送る場合、相手を褒めて自分と下げる・・・
それが何か、碑文に転用されたらしいです。


もちろん、大半の県民はそんなこと知らない訳で、
これを見て「馬鹿にするな!」と石碑を引き倒そうとしました。
まあ、荒っぽいし早急なのでw
ただ、この石碑が最初に設置された高浜公園は、
楫取県政最大の協力者である、下村善太郎が市に寄贈した土地。
「まあ、俺の顔を立ててくんねぇか」とか、説得があったかは定かでありませんが、
今でも現存することになった次第です。


なお、明治の群馬県を「難治県」とよく説明されますが、
それもどうやらここが初見らしい。
この一件が残した教訓は、送別の辞は程々に・・・なのかw



智本光隆

前橋から花燃ゆ㉒前橋女学校(女児学校)

2015-12-05 08:32:34 | 日記
Q アイスクリームつくる氷って真夏にどっから調達するの?

A え~・・・横浜から製氷機を取り寄せるか、
  ああ、養蚕は繭倉庫に風穴や氷穴を使うので。
  この時期はまだあまり使われていないらしいが、榛名風穴があります。

Q ・・・そこから氷を?利根川に橋ってあったの?

A むろん泳いで!!(あ・・・船橋があったな)



それはともかく!
質問もいただいておりますんで、前橋の「女児学校」(女子小学校)について、
私の認識違いもあったので再度まとめてみます。
明治5年の学生発布により「女児小学」が定義されました。
修学は4年間で7~11歳。
これを受けて明治11年に前橋に開学したのが前橋女児学校ですが、
正式名称は「前橋女学校」のようです(ちょっとこのあたり資料を確認中・・・)


この学校・・・ドラマでは明治15年のことになっていますが、
「前橋女学校」の開学は明治11年です。
当初は前橋本町の民家を仮校舎としていましたが、
13年5月に市内連雀町の八幡宮北側に新校舎が落成しました。
初代校長は朝岡剛平氏が就任。
現在だと・・・





この辺りってことになりますか?国道50号げんき21前。
この間紹介した、生糸改所の反対側になりますね。
奥に見えるのが八幡宮ですが、しかし石柱とかもないので推測しか。
当時の前橋の一等地ですね。


新校舎の落成式には楫取素彦県令はじめ、
下村善太郎や前橋名士が数多く参列したそうです。
また、安中出身の新島襄や楫取寿子県令夫人も、
学校の熱心な支援者だったと伝わっています。
(注:同時期開学準備中の県立女学校と逸話が混同している可能性もあります)


こうして学校は軌道に乗ったかに見えたのですが、
明治16年5月1日・・・前橋市街地の過半を焼いた、
「前橋大火」で新校舎は全焼してしまいました。
学校は再び民家を借り「第一女学校」「第二女学校」として存続し続けます。
ですが、明治18年に不況が直撃し・・・
そして明治19年に小学校令発布によって、
尋常小学、高等小学の体制となりました。
同年は「女子分教所」として存続しましたが、
21年は学年に応じて在学生は既存学校の相当学年に振り分けられ、
「前橋女学校」は姿を消しました。


なお、教科については裁縫が12時間プラスされている他は、男子とほぼ同じです。
ただし、その12時間分は他の学科が削られました。
また、閉校寸前の19年には女子にはなかった「体操」が組み入れられました。


なお、学校は明治17年までで、

11年 598人
12年 585人
13年 483人
14年 341人
15年 379人
16年 265人
17年 180人



が在学したと記録されています。
大火以後、特に生徒数が減少しています。
これは他に、前橋他地域の学校への進学者が増えたことも原因です。
女児学校は女子就学率向上のため、県都・前橋にシンボル的に創設された面もあるので、
就学率を上げた時点で役割を果たしたとも言えます。


ただ「前橋女学校」が閉校になり、
高等教育機関の「群馬県立女学校」も15年に開学も19年3月に閉校。
(有志による援助を経て、現在の前橋共愛学園へ移行)しており、
県内の女子学校は明治32年の高崎高等女学校まで待つことになります。
もっとも、この空白を明治裁縫学校などの、裁縫学校系私学が埋めることになりますが・・・
どちらにせよ「前橋女学校」が今日存続していないのは残念ではあります。
校舎は残っていても、前橋空襲で焼失してしまったかも知れませんが・・・



前橋八幡宮 晩秋の風景。



参考文献『前橋市史』第3巻




智本光隆