いつの時代でも、
恐らくは多くの民族や文化において、
おてんば だったり 小悪魔 だったり、
奔放な女性の魅力というのは
抗いがたいものである。
こういった魅力の大きな要素の一つとして
「自由さ」
があると思う。
これはまさに、T-ARAのアイデンティティだ。
どうですか、例えばキュリのこの笑顔。

本当に笑っちゃってますね。
よそ行きの笑顔だって、例えばウンジョン。

完璧です。
いつまでも可愛くあって欲しいと思う訳です。
誰も彼女達を傷つけて欲しくないとも思います。
好きになった対象には、当然の感情です。
しかしながら、「好き」を勘違いする輩がいる。
可愛さ余って憎さ百倍という言葉があるが、
これは多分ウソで、自分自身が大好きな人の
特徴ではないだろうか。
自分を大切にすることは重要だし、
滅私奉公的な犠牲の精神は不要だとも思うが、
好きという感情には慈しみが含まれているはず。
片手落ちな感情しか持ちえないというのは、
その人の未熟さなんだと思う。
本当に好きになったことがないのだ。
或いは、本気になることを避けているのだ。
とは言っても、女性ミュージシャンがファンを
名乗る男に傷つけられた事件からして、
未熟で不埒でけしからん奴が存在するのも事実。
そういう現実の中で、T-ARAの自由さ、即ち
魅力を維持するには、今のT-ARAとファンの
距離感は近過ぎるのかもしれない。
非常に残念だが、もう少し遠くから彼女達を
見つめる勇気と決断がファンに求められている
ような気がする。
ファンがT-ARAを守るって
そういうことなんだと思ったりしている。
神聖なクリック
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