青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

ブラックウッド傑作選

2016-06-20 07:08:07 | 日記
アルジャーノン・ブラックウッド著『ブラックウッド傑作選』

収録作は、『いにしえの魔術  Ancient Sorceries』、『黄金の蠅 The Golden Fly』、『ウェンディゴ The Wendigo』、『移植 The Transfer』、『邪悪なる祈り Secret Worship』、『囮 The Decoy』、『屋根裏 The Attic』、『炎の舌 Tongues of Fire』、『犬のキャンプ The Camp of the Dog』の9編。

心霊博士ジョン・サイレンスが活躍する『いにしえの魔術』、『邪悪なる祈り』は、怪談小説アンソロジーの類にたびたび取り上げられているので読んだ方も多いと思う。完成度も高い。
因みに『いにしえの魔法』は、猫モノとしても人気が高いが、『屋根裏』もまた、猫モノとして魅力的な小品である。猫とホラーの親和性は高い。

ただ、私自身はキャラにあまり愛着を持たない性質なので、魅力的な探偵役で読者をひきつけるシリーズものよりは、ノンシリーズの方が物語そのものを気楽に楽しめる。それに、サイレンス博士は理窟屋さんだし…(汗笑)。せっかくの禍々しくも神秘的な空気を科学や精神医学の理論で解き明かすのは勿体ない。見えないものは見えないままに感覚で享受したいと思うのだ。

本作に収録されている短編の中では、『移植』が特に私好みであった。

『移植』は、吸血鬼と透視を組み合わせた奇妙な感覚の怪異譚。
この組み合わせは常人では思いつかないし、思いついたとしても作品として完成させるのは難しいのではないだろうか。しかし、さすがはブラックウッド。奇抜な発想を手堅い筆力をもって完成度の高い悪夢に仕上げている。

舞台は、片田舎の邸宅。物語の中心となるのは、この屋敷の末っ子で7歳になる神経過敏なジェイミー。家庭教師で透視者の“わたし”。当主フレーン氏の兄で実業家のフランク伯父さん。そして、広大な庭の一角にある“異常な場所”。

フランク伯父さんの異常性に気づいているのは、ジェイミーと “わたし”だけだ。
フランク伯父さんは、お金持ちで、社会的に成功した人物。博愛家であることやら、手掛けた事業はすべて成功することやらは新聞にもたびたび取り上げられている有名人である。
ジェイミーには、フランク伯父さんに対する恐怖心の理由を理窟で説明することはできない。
しかし、透視者の“わたし”には見えている。
フランク伯父さんは、大勢の人の精力を利用することが出来るのだ。他人の業績や生命力を奪い取ることにかけては天才的で、しかも本人はそれを意識していない。彼のそばに居ると、誰でも自然に精力を吸収されてしまい、アイデアも体力も、片言隻句すらも吸い尽くされてしまう。
いかにも人当たりの良い顔つきで、平然とこんなことをするだけに、いっそう危険ともいえるのだ。巨大な人間スポンジ――生命力やそれから生じるものの海にどっぷり浸り、盗んでしまう男――吸血鬼。“わたし”は彼のことをそのように見ていた。

そして、ジェイミーと“わたし”を悩ますもう一つの存在が、あの“異常な場所”だ。
丁寧に手入れされ、四季折々の草木で彩られる庭園の中にあって、何も芽吹くことの無い不毛地帯。
ジェイミーがあれこれ訴えても、父親のフレーン氏はあまり繊細な人ではなく、子供に対して我流の躾を押し付けがちだし、庭師のグールドさんは「自然界には悪いものなんて何もない」と断言して譲らない。
だけど、あの庭園の一角にある死に絶えた土地には、何かがある。何やら欠けたものがあって、その原因は誰にもわからないが、ひとたびそれがわかりさえすれば、残りの場所のように草木が茂るはずなのだ。
それが出来る人が一人だけ存在する。フランク伯父さんその人だ。あの恵まれた生活をしている人こそ、欠乏を――自分ではそれと意識せず補うことの出来る唯一の存在なのだ。“わたし”は、そう確信している。

物語の終盤は、フランク伯父さんと“異常な場所”との無意識の戦いになる。
フランク伯父さんは自分が吸血鬼であるという自覚がないし、土地にはそもそも意志などない。両者とも超自然に属する存在で、いわば純然たる悪なのだ。

フランク伯父さんとあの土地のその後を語る数十行は、まさに悪夢そのもの。
最後まで読めば、“移植”というタイトルの秀逸さに背筋がゾワゾワする様な嫌悪と恐怖を抱くはずである。尚、この作品は、『転移』というタイトルでも翻訳されているが、『移植』の方が断然センスが良い。

その他は、怪奇小説というよりは心理小説といった趣の強い『囮』、信仰の告白を詩的な観念小説に仕上げた『黄金の蠅』が興味深かった。

永遠、空虚、幻想、眠り、死。それから、信仰と自然への憧憬と郷愁。
霊性の発現という局面を、自然との接触、交渉、葛藤の中に捕えようと試みたところに、ブラックウッドの独自性がある。
全体に汎神的、神秘主義的な傾向が強く、大自然や運命に対する畏敬の念が色濃い作風であるが、ブラックウッド自身はバランスのとれた市民感覚の持ち主だったのではなかろうか。日常的な事柄と超自然の恐怖をリンクさせるのが上手いのである。
信心深いキリスト教徒でありながら、決して偏狭ではない。大学卒業後に放浪生活を送ったり、その後も長らく実業の世界に身を置いていたためか、作風に頑迷なところが無いのだ。古典的な優雅さに溢れる怪奇小説は味わい深く、彼がモンタギュウ・ロウズ・ジェイムズとアーサー・マッケンと並んで、欧米怪奇小説の三巨匠と称されるのも当然の評価なのである。
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