エドゥアール・デュジャルダン著・萩原茂久訳『妄想と脅迫』
『妄想と脅迫』の原著は1886年が初版であるが、この日本語訳が出版されたのは今年の3月。このことから、デュジャルダンが日本ではいかにマイナーであるかということがよくわかる。私がデュジャルダンを知ったのも割と最近のことだ。
デュジャルダンは、初期の印象派に属する作家・詩人であり、マラルメの火曜会に入っていた人物。代表作は、『もう森へなんか行かない』『月経樹は切られた』。英語圏では、「意識の流れ」の手法で広く影響を与えた。影響を受けた者の中には、ジェイムス・ジョイスやフォークナーなど日本で人気の作家もいる。
序言(初版より)
生くるは、われらが魂のみ……
テオドール・ドゥ・ヴィゼヴァ
ただひとつ、想念だけが存在する。私たちが生きる世界は、私たちのありふれた作りものなのだ、がときおり、私たちは別の想念によって、別の世界に生きる。
人生の特殊な創造や、想念の厳格については、また、いくつかの妄想・脅迫については、以下の各章に。
一八八六年二月
本書を読むにあたっては、この序言が大きな支えとなる。以下は、妄想と脅迫による13の別の世界の物語。作りものなのは、別の想念が生み出した世界か?それとも現世界か?
オーギュスタ・オルメス嬢に―――
「近づく狂気」
A・ラスクゥ氏に―――
「過ぎ去った狂気」
「カチュール・マンデス氏に―――
「愛のことば」
ステファヌ・マラルメ氏に―――
「ダーラナ」
ラシルド嬢に―――
「一日の物語」
「フェリクス・フェネオン氏に―――
「子への恐怖」
ヴェリエ・リラダン伯爵に―――
「足つかみ悪魔」
エドゥアール・ロ氏に―――
「鉄の処女」
ジョリ=アルル・ユイスマンス氏に―――
「自己処刑者に」
ヒューストン・スチュワート・シャンベルラン氏に―――
「除霊術者(今ある狂気)」
オディロン・ルドン氏に―――
「遺言」
ジュール・クルティエ氏に―――
「地獄」
アジェノール・ボワシエ氏に―――
「聖職者」
13編の短編小説は、それぞれが時の著名な詩人・作家・批評家その他に捧げられている。
なかなか面白い試みなのだが、碩学な私が知っているのは、マラルメ・リラダン・ユイスマンス・ルドンの4人だけ。やはり知っている人に書かれた作品の方が、知らない人宛ての作品より面白かったので、その点を非常に残念に思った。軽くでも良いからあとがきで、彼らのプロフィールやデュジャルダンとの関係に触れてくれたら有り難かったのに…(自分でググれ?)。
精神の混乱というテーマ以外は割とバラバラの作風なので、この作品を捧げられた人はこんな話を好むタイプなのだろうなぁ、と想像しながら読むのも一興だ。という訳で、彼らについて略歴でも知っておいた方が、本書をよりディープに楽しめるのではないかと思った次第である。
私がこの短編集で一番読み易かったのは、ユイスマンスに捧げた「自己処刑者に」だ。
「苦痛は喜びでもあるんだ」
あるビア・ホールで、男が話しかけてきた。
男は、かつて詩人であり、今はもう詩人ではなかった。男は、若さの苦悩を恋愛に求めた。その苦しい恋愛にうってつけの女性を見つけた。彼女のことは、顔も性格もよく覚えていない。良い人ではあったらしい。
一人の女性を愛したいと望んで、その人を愛した。彼女も愛してくれた。しかし、男は彼女から逃げた。そして、彼女の元に戻って、許しを乞うた。拒絶された。挙句の果てには、憐れまれてしまった。……当たり前である。相手からすれば、馬鹿にするのも大概にして欲しいというところだろう。
男は、幸福の中には、殆ど快楽的な喜びはないと考えている。人は自らの苦悩からしか存分に楽しむことが出来ない。
ああ!絶望的な日日の苦悩!
男は、この顛末に満足している。熱病、叫び、涙、自らに対する激高。心身をすり減らし、魂を焼いてしまった。精神が実年齢より老いてしまった。しかし、あれはなんと喜びに満ちた時代であったか!男にとって、苦悩こそが至高の快楽的喜びなのだから。
フランス18世紀末に限らず、古今東西、こういう人って珍しくはない。
私の知っている中にも、そんな傾向がある人が何人かいるので、比較的ポピュラーな感覚だと思っている。
凡人が手っ取り早く悲劇の主人公になれるのが、恋愛というものの有り難さ。
自分の感覚や経験が特異なものではなく、平凡の範疇であることを知れば、憑き物が落ちたように平穏に生きることが出来ると思うのだけど、苦しいのが好きなのだからどうにもならない。好きに生きれば良いと思う。
それから、本書を読むにあたって一番期待していたのが、リラダン伯爵に捧げた「足つかみ悪魔」。
理由は、この中ではリラダン伯爵が一番好きだからという、至極単純なもの。
「足つかみ悪魔」は、言語学・比較神話の教授にして悪魔学の研究者でもあるジェニウス氏の突然の結婚と、学問的探究の旅で立ち寄った村で農民の娘から聞いた足つかみ悪魔の話が彼に齎した精神の変化についての物語。
いかにもリラダン伯爵が好みそうな作風だ。原著を読んでいる訳ではないのではっきりとは言えないけど、もしかしたら文体もリラダン伯爵を意識しているのかもしれない。
ただ、非常に残念なことに、この訳者の日本語は読み難い。
所々文法的におかしいところがある。その度に考え込まされるので、なかなか乗れない。面白いことが書いてある筈なのに、意識が上手く入り込めなくて、歯痒いことこの上なかった。
それと、この訳者には、“恋びと”、“夕がた”、“ひと気”など、漢字と仮名の分け方に妙なこだわりがあるのが気になった。原著は面白そうなのに変なところばかり気になる。つくづくもったいない。
収録された短編の並びも、読みつぎやすいように考えて、訳者が順序を入れ替えたとのこと。大きなお世話である(一応、あとがきに原著の順も記載されているので、その通りに読むこともできる)。
訳者のエゴが前面に出ていて、作品を半ば私物化しているように感じた。訳者には黒子に徹していただきたい。フランス語が堪能な方なら、原著を読むべきであろう。
『妄想と脅迫』の原著は1886年が初版であるが、この日本語訳が出版されたのは今年の3月。このことから、デュジャルダンが日本ではいかにマイナーであるかということがよくわかる。私がデュジャルダンを知ったのも割と最近のことだ。
デュジャルダンは、初期の印象派に属する作家・詩人であり、マラルメの火曜会に入っていた人物。代表作は、『もう森へなんか行かない』『月経樹は切られた』。英語圏では、「意識の流れ」の手法で広く影響を与えた。影響を受けた者の中には、ジェイムス・ジョイスやフォークナーなど日本で人気の作家もいる。
序言(初版より)
生くるは、われらが魂のみ……
テオドール・ドゥ・ヴィゼヴァ
ただひとつ、想念だけが存在する。私たちが生きる世界は、私たちのありふれた作りものなのだ、がときおり、私たちは別の想念によって、別の世界に生きる。
人生の特殊な創造や、想念の厳格については、また、いくつかの妄想・脅迫については、以下の各章に。
一八八六年二月
本書を読むにあたっては、この序言が大きな支えとなる。以下は、妄想と脅迫による13の別の世界の物語。作りものなのは、別の想念が生み出した世界か?それとも現世界か?
オーギュスタ・オルメス嬢に―――
「近づく狂気」
A・ラスクゥ氏に―――
「過ぎ去った狂気」
「カチュール・マンデス氏に―――
「愛のことば」
ステファヌ・マラルメ氏に―――
「ダーラナ」
ラシルド嬢に―――
「一日の物語」
「フェリクス・フェネオン氏に―――
「子への恐怖」
ヴェリエ・リラダン伯爵に―――
「足つかみ悪魔」
エドゥアール・ロ氏に―――
「鉄の処女」
ジョリ=アルル・ユイスマンス氏に―――
「自己処刑者に」
ヒューストン・スチュワート・シャンベルラン氏に―――
「除霊術者(今ある狂気)」
オディロン・ルドン氏に―――
「遺言」
ジュール・クルティエ氏に―――
「地獄」
アジェノール・ボワシエ氏に―――
「聖職者」
13編の短編小説は、それぞれが時の著名な詩人・作家・批評家その他に捧げられている。
なかなか面白い試みなのだが、碩学な私が知っているのは、マラルメ・リラダン・ユイスマンス・ルドンの4人だけ。やはり知っている人に書かれた作品の方が、知らない人宛ての作品より面白かったので、その点を非常に残念に思った。軽くでも良いからあとがきで、彼らのプロフィールやデュジャルダンとの関係に触れてくれたら有り難かったのに…(自分でググれ?)。
精神の混乱というテーマ以外は割とバラバラの作風なので、この作品を捧げられた人はこんな話を好むタイプなのだろうなぁ、と想像しながら読むのも一興だ。という訳で、彼らについて略歴でも知っておいた方が、本書をよりディープに楽しめるのではないかと思った次第である。
私がこの短編集で一番読み易かったのは、ユイスマンスに捧げた「自己処刑者に」だ。
「苦痛は喜びでもあるんだ」
あるビア・ホールで、男が話しかけてきた。
男は、かつて詩人であり、今はもう詩人ではなかった。男は、若さの苦悩を恋愛に求めた。その苦しい恋愛にうってつけの女性を見つけた。彼女のことは、顔も性格もよく覚えていない。良い人ではあったらしい。
一人の女性を愛したいと望んで、その人を愛した。彼女も愛してくれた。しかし、男は彼女から逃げた。そして、彼女の元に戻って、許しを乞うた。拒絶された。挙句の果てには、憐れまれてしまった。……当たり前である。相手からすれば、馬鹿にするのも大概にして欲しいというところだろう。
男は、幸福の中には、殆ど快楽的な喜びはないと考えている。人は自らの苦悩からしか存分に楽しむことが出来ない。
ああ!絶望的な日日の苦悩!
男は、この顛末に満足している。熱病、叫び、涙、自らに対する激高。心身をすり減らし、魂を焼いてしまった。精神が実年齢より老いてしまった。しかし、あれはなんと喜びに満ちた時代であったか!男にとって、苦悩こそが至高の快楽的喜びなのだから。
フランス18世紀末に限らず、古今東西、こういう人って珍しくはない。
私の知っている中にも、そんな傾向がある人が何人かいるので、比較的ポピュラーな感覚だと思っている。
凡人が手っ取り早く悲劇の主人公になれるのが、恋愛というものの有り難さ。
自分の感覚や経験が特異なものではなく、平凡の範疇であることを知れば、憑き物が落ちたように平穏に生きることが出来ると思うのだけど、苦しいのが好きなのだからどうにもならない。好きに生きれば良いと思う。
それから、本書を読むにあたって一番期待していたのが、リラダン伯爵に捧げた「足つかみ悪魔」。
理由は、この中ではリラダン伯爵が一番好きだからという、至極単純なもの。
「足つかみ悪魔」は、言語学・比較神話の教授にして悪魔学の研究者でもあるジェニウス氏の突然の結婚と、学問的探究の旅で立ち寄った村で農民の娘から聞いた足つかみ悪魔の話が彼に齎した精神の変化についての物語。
いかにもリラダン伯爵が好みそうな作風だ。原著を読んでいる訳ではないのではっきりとは言えないけど、もしかしたら文体もリラダン伯爵を意識しているのかもしれない。
ただ、非常に残念なことに、この訳者の日本語は読み難い。
所々文法的におかしいところがある。その度に考え込まされるので、なかなか乗れない。面白いことが書いてある筈なのに、意識が上手く入り込めなくて、歯痒いことこの上なかった。
それと、この訳者には、“恋びと”、“夕がた”、“ひと気”など、漢字と仮名の分け方に妙なこだわりがあるのが気になった。原著は面白そうなのに変なところばかり気になる。つくづくもったいない。
収録された短編の並びも、読みつぎやすいように考えて、訳者が順序を入れ替えたとのこと。大きなお世話である(一応、あとがきに原著の順も記載されているので、その通りに読むこともできる)。
訳者のエゴが前面に出ていて、作品を半ば私物化しているように感じた。訳者には黒子に徹していただきたい。フランス語が堪能な方なら、原著を読むべきであろう。